2012年12月13日木曜日


「秘められた計画」(ローマ16:25-27)12月9日説教要旨 

晩年のパウロが、全ての経験を踏まえて、直接記したローマの信徒への手紙は、それ故に「パウロの遺言書」とも言われる。その中でも、最後の部分が示された。「福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するもの(25節)」だと言う。「秘められた計画」とは「神の愛の計画」である。それが「福音」として「啓示」する、すなわちイエスによって明確に示されたのだという。

さらに「預言者たちの書き物を通して( 26節)」とあるように、「秘められた計画」は、古くより預言者たちに示されていたという。それが「今や現された」、すなわち、イエスによって啓示された。パウロはこの事を、この手紙の最初にも記すことによって強調している。「神が …預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです( 1:2-3)」と。すなわちパウロは「イエスは旧約の成就である」と言っているのだ。

パウロや初代キリスト者たちが旧約聖書を綿密に検証することを通して、主イエス・キリストの出来事をより深く理解した事が示される。クリスマスを前に、この箇所が示されることによって、私た
ちも、自らの信仰理解を見つめ直すために、旧約の預言の成就を確認し、新しい気持ちでクリスマスに備えたい。
難波信義牧師

「主の光の中を」(イザヤ書2:1-5) 12月2日説教要旨

先週のミカ書・預言者ミカと同時代に生きた預言者イザヤ。アッシリア帝国の脅威の中で、衰退して行くイスラエルであったが、イザヤもまたミカと同様に、国家の衰退は外的要因によるものではなく、全ては正しく主の言葉を聞き入れているかどうかにかかっている、という視点をもっていた。それ以上にイザヤは、主なる神こそが世界の中心であるという確信があったので、世界中の人々が神を礼拝にするために集まってくるのだと、力強く語る(23節)。

イザヤが語る、このような「本来の姿」に世界が立ち返る時、世界は平和に包まれるのだという(4節)。イザヤは、この神による永久の平和を「主の光の中」と呼び、その道を歩もうと言う(5節)。アドヴェントに入った。その最初の主に、神への信頼による「平和」についての力強いメッセージが示された。特に十字架へと進まれるイエスの、その誕生を待ち望むアドヴェントであることを思う時、私たちは、このイエスの自己犠牲の足跡をたどることを通して、クリスマスの意味を捉え直したい。
主に倣いつつ、平和をつくり出す一人としてアドヴェントの日々を歩みたい。預言者イザヤが招くように、私たちも共々に「主の光の中を歩もう」。難波信義牧師

「彼らを羊のように」(ミカ書2:6-13) 11月25日礼拝要旨

紀元前700年頃に南王国ユダで活動した預言者ミカの言葉。アッシリア帝国の脅威の中で、衰退して行く南王国ユダであったが、ミカにとって、国家の衰退は外的要因(この時代ではアッシリアの
台頭)によるものではなく、全ては正しく主の言葉を聞き入れているかどうかにかかっている、という視点であった。

特にミカが告発しているのは、国を正しく導くはずの政治指導者と宗教指導者たちであった。彼らは「神は祝福に満ち、恵みを与えられる神」だと、もっともらしい主張をするが、ミカはその彼らを、
「昨日までわが民であった者が/敵となって立ち上がる( 8節)」と鋭く告発する。
彼らは自己弁護・正当化のために神を利用しているに過ぎず、民から搾取・抑圧する彼らこそが「敵」だと言う。さらに「この地は汚れのゆえに滅びる( 10節)」と、国の滅亡を語る。

これは一方で悲観的な響きを持っているが、同時に復興の預言も語られている( 12節以下)ことから、神の復興の約束・その信頼の中で、恐れず歩むことが示される。現状が混乱し、耐え難いとしても、復興の希望・回復が約束されているのだから、新しく作り替えられながら、新しい希望を持って歩み出そう、と促される。「自己解体」や「白紙に戻す」事を恐れず、神に信頼して歩みたい。
難波信義牧師

「しかし、わたしは」(マタイ 5:38-42)11月18日説教要旨 

教会に行ったことがない人でも知っているほど有名なイエスの言葉・その箇所である。「目には目を、歯には歯を」というのが、律法による常識であった(レビ24:20)。しかしイエスはここで、「悪人
に手向かうな」と教える。さらにこの事を、4つの状況設定から説明する。

①誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けよ。 ②下着を取ろうとする者には上着をも取らせよ。
③1ミリオン行くよう強いるなら、一緒に2ミリオン行け。 ④求める者には、背を向けず、与えよ。
これは決して「譬え話」ではなく、実際にそうしなさいと言う教えである。私たちには実行不可能と思える教えであり、そもそもこの教えの通りにすることが、本当に正しいことなのか・悪や不正義を
はびこらせるだけなのではないか、とさえ考えてしまう。

このイエスの言葉があまりにも強烈で、一人歩きしているようにも思うが、この箇所の表題には「復讐してはならない」とある。これがこの箇所のポイントである。「あなたのしようとしている復讐の、その先に、一体誰が犠牲になるのか。そのことをよく考えなさい。あなた以上に、苦しむ人がいるのだから」と、復讐の連鎖・その現実の恐ろしさを断ち切るために、イエスは教えている。
難波信義牧師

「ふさわしい実を」(マタイ3:7-12)11月11日説教要旨 

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。( 7-8節)」洗礼者ヨハネの言葉である。この非常に厳しい言葉は、ヨハネのもとに来て洗礼を受けようとしていたファリサイ派やサドカイ派の人々に対して語られた。

ファリサイ派は、律法を重んじ、会堂や学校で律法を教える、当時においては最も真面目なグループだと言える。またサドカイ派は神殿に仕える祭司たちを中心としたグルーブであり、彼らも宗教指
導的立場にあった。しかしその一方で、「律法を守る」「儀式を守る」という「行為」を重んじる事によって、形式主義に陥っていたのかも知れない。ヨハネはそれを鋭く見抜いて「悔い改めにふさわし
い実を結べ」と言った、すなわち「形式だけの悔い改めでは、神の怒りは免れ得ない」と言ったのだった。

このヨハネの教えは、今を生きる私たちにも迫る。すなわち「内実の伴った行いをしなさい」と。礼拝を通して神を知った私たち/イエスに出会った私たちが、今を/これからを、どのように生きるの
か、その事が鋭く問われる。クリスマスも「形式」としてではなく、内実を伴う決意を持って迎えたい。
難波信義牧師

「イエスと一緒に」(一テサロニケ4:13-14)11月4日説教要旨

「召天者記念礼拝」にあたり、信仰の先達・信仰の友を覚えている。と同時に私たち自身の死を覚え、死に至るまでの「生」について考えさせられる。中世の修道士たちが日々の挨拶として交わしていた「メメント・モリ(あなたの死を覚えよ)」については、昨年も触れた。

「死」をタブー視する社会にあっては、このような挨拶は悲観的・絶望的な持ちを持ったものだが、キリスト教では「全ての人が死に定められている」という、一見、何の希望もないところから「生きる」という事を考えようとする宗教である。「死」を起点とする「希望」について考える宗教なのである。パウロは言う。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」キリストにあって死んだ者は、キリストと同じように、死にとどめおかれる事はないのだ。

イエス・キリストは死という絶望と虚無を打ち破り、新しい復活の命、新しい「生」へと私たちを導き出してくださる。「死」は絶対の終わりではなく、死を超えて結ばれる交わりを、私たちは信じて、今を生きるのである。ここに信頼と希望をおいて、今の「命」を生きたい。
難波信義牧師

「イエスの仲間」(マタイ 10:26-33)10月28日説教要旨 

教会暦は「聖霊降臨節」から「降誕前節」に替わった。少し早い気もするが、ここからクリスマスに備える日々に入る。「降誕前節」は同時に、暦が新しくなる事をも意味し、その最初には、私たちの信仰について根本的な事が示される。

ここでイエスは言われる。「人々を恐れるな( 26節)」、「むしろ、魂も体も…滅ぼすことのできる方を恐れなさい( 28節)」と。少し前の箇所で「迫害の予告」がなされ、不安に包まれる弟子たちに、このように語るのである。それは決して、「迫害を恐れるな/命なんてどうでも良い」と言われるのではない。むしろ命を大切にするからこそ「神を畏れよ」と言われる・「命を与えた神をこそ畏れよ」と言われるのである。

命の神は雀の一羽一羽を見守り、助ける。命の神は、私たち一人一人の髪の毛の数さえ知っておられるほどに、一人一人を熟知しておられる。私たちの弱さも、罪深さも、何に苦しみ、何に悩んでいるのか、私たちがどのような人間であるのか、全てご存知なのだ。だから、私たちはどのような状況に立たされても、「イエスの仲間だ」と言い表し、人間を恐れるのではなく、全てをご存知の神を畏れて、その神に信頼して歩むのである。この原点に立ち返りつつ、クリスマスに備えたい。
難波信義牧師

「許しと平和」(エフェソ 2:14-18)10月14日信徒伝道日礼拝

私は1941年に上海で生まれた。父は当時の逓信省の役人で、中国全土の情報管理を徹底するために派遣されていた。しかし父は私が生まれた翌年に若くして上海で亡くなった。長じて、父が上海に派遣されたその歴史的背景を知り、私が上海で生まれた意味は、その許しを得るために中国やアジアの人々との間に平和を生み出す働きをすることだと思った。

以前韓国を訪問した際、老人から「私達が日本語や神社参拝を強制されてどんなに苦しかったか!」と言われた。日本語を強制し苦しめた国にその日本語を持込み通訳をしてもらうとは、大変
傲慢な事ではないかと深く反省し、日本語を強制した韓国で、今度は私が韓国語を学びたいと思った。その私を、これからもしっかり日韓の平和な関係を築くために力を尽してほしいと、国立全南大学が奨学生として受け入れてくれた。その事を実現してくれた人たちは韓国のYMCAやキリスト者の皆さんであった。「キリストは双方をご自分に於いて一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ 2:15-16)の御言葉を実感する経験であった。
山根誠之兄

「招きと選び」(マタイ22:1-14) 10月7日説教要旨難波信義牧師

イエスが語った「婚宴」の譬え。王が王子のために婚宴を催し「招いておいた人々」を招くが、彼らはそれを無視し、王の家来がやってきて直接招いても、仕事に出かけ、さらに王の家来を殺してし
まう。この譬えでの王は神である。そして家来とは旧約の預言者たちであり、さらに殺された家来はイエスをさしているのではないか。預言者たちは何度も神の裁きを告げたが、イスラエルの民はそれを無視した。また神の子イエスを認めず、十字架にかけて殺してしまった。

さて、この譬えで王は、善人も悪人も婚宴に招いている。ところが「礼服を着ていない者」を見つけ排除したのだ。この譬えの最も難解な部分である。
この「礼服」とは何か。聖書において「衣」は「正義」や「正しい行い」を示す。さらに「晴れ着」つまり「礼服」は「罪の赦された状態」であり、それは私たち自身の「新しい生き方」を示す。

王は全ての者を招いた。つまり神は私たち全ての一人一人を招いている。その上で、私たち自身の態度が問われているのである。その招きに応え、自らの罪や弱さを告白し「新しい生き方」へと歩みを進める、その変化が求められている。全てが整えられた礼拝に、喜びをもって集う私たちでありたい。
難波信義牧師

「神の富と知恵」(ローマ11:33-36) 9月30日説教要旨

示された箇所は、パウロがローマの信徒に宛てた手紙の、そのごく一部であるが、流れを踏まえると、9章から長々と記される「神の壮大な人類救済の歴史」のまとめの言葉になっている。特にパウ
ロ自身は、もともとユダヤ教のエリート教育を受けていたので、聖書(旧約)には精通し、その知識を充分に用いて、「神の壮大な人類救済の歴史」を記しつつ、「その神が、異邦人であるあなた方(手紙の受取手であるローマ人)をも、救い、導いてくださるのだ」と言う。この「まとめ」の言葉であるこの箇所も、ほとんどはヨブ記を引用しながら記している。

信仰深く、こどもにも財産にも恵まれたヨブであったが、彼は一瞬にしてその全てを失い、自らもひどい皮膚病に悩まされる。しかしヨブは、神を呪う事はなく、むしろ深い信仰理解に生きた。あま
りの悲惨さに、集まった友人たちは、この不幸の原因探しをするが、そこで信仰理解を巡ってヨブと大激論になる。その記録が「ヨブ記」の大半を占める。

しかし、この結論こそが、この短い箇所・ここでパウロが記している事なのである。特に36節には、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」とある。本当に、私たちに
は計り知れないが、神の深い配慮の中で生かされているのである。
難波信義牧師

わたしと父とは一つ」(ヨハネ10:22-39)9月23日説教要旨

ユダヤ人たちは「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい( 24節)」とイエスに詰め寄る。彼らは、ローマの支配から解放してくれる「政治的メシア」を期待して、このように言ったのだった。

それに対してイエスは、真のメシアを示す。先週の場面に続いて「羊飼いと羊」の関係を用いつつ、羊である「彼らに永遠の命を与え( 28節)」、さらにその羊は「全てのものより偉大である( 29節)」と
言われた。すなわち、ひとり一人を見出し、守り、導き、愛する …、そのような愛のメシアとしてご自身を示す。

このイエスの姿から「関係の中に生きる」という信仰の姿勢が示される。「神を信じる」という時、そこに何かを期待したり、願うのではなく、神との関係の中に生きるという事・その関係の中に身を
投じて生きるという事である。(30節)と言われた。当然イエスは神と一体であるが、ここでもう一つの意味として、イエスが神との関係の中で生きたという事が示される。「甘え」や「自己放棄」の「ゆだねる」ではなく、全存在を賭けてゆだねる、そのような関係の中に生きたい。
難波信義牧師

「良い羊飼い」(ヨハネ10:1-11) 9月16日説教要旨

羊飼いと羊の関係は、聖書の世界では生活体験そのものであったが、ここではさらに旧約時代から受け継がれてきた神との関係、その信仰の豊かなイメージがある。「主はわたしの羊飼い(詩編
23編)」と歌われてきたように、羊飼いと羊の関係は神と人間の関係なのである。

この前提の中で、「わたしは羊の門である( 7節)」「わたしは良い羊飼いである( 11節)」とイエスは言われる。とても理屈では成り立たないのだが、イエスの豊かさ・恵みは、人間の常識を越える。
羊を取り囲む世界は、決して平穏なものではなく、常に危険に満ちている。「盗人」「強盗」「屠ったり」「滅ぼしたり」が現実なのだ。この現実の中で、羊にとって本当に大切なのが「囲い」であり、正
しい「門」なのであり「救われる」ための、「命を受けるため」の「門」なのだ。

そのような「囲い」と共に、同じくらい重要になるのが、どのような羊飼いに導かれるか、という事である。そこでイエスは「わたしは良い羊飼いである」とも言われる。その根拠は「羊のために命
を捨てる(11節)」からであり、ここに十字架の贖いの恵みが示される。
難波信義牧師

「神に属する者」(ヨハネ8:37-47) 9月9日説教要旨

「真理はあなたがたを自由にする(32節)」とのイエスの言葉を受けて、「我々はアブラハムの子孫だ」と反論したユダヤ人たち…。示された箇所は、このきっかけから始まった論争の部分である。
ここでイエスは「あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである(37節)」と決定的な事を告げる。これによってユダヤ人は自由ではない・真理ではないと言った。
「アブラハムの子孫」という言葉・その根拠だけで、自由だと訴えるユダヤ人だが、その自由によって何を成そうとしているかというと、イエスを「殺そうとしている」。

しかしイエスは「受け入れない自由」ではなく「受け入れる自由」を、「殺す自由」ではなく「生かす自由」を、その御生涯を通して示された。そして私たちを招く。「わたしの言葉にとどまるならば…
真理は、あなたがたを自由にする( 3132節)」と。このイエスに従って生きる事・イエスの言葉に生きる事・真の自由に生きる事が、私たちを「神に属する者」とする。

「神に属する者」としての自覚を新たにしつつ、「受け入れる自由」「共に在ろうとする自由」「愛する自由」を大切に、歩む者でありたい。
難波信義牧師

「光の子として」(エフェソ5:6-20)9月2日説教要旨

他宗教・他文化の中にある港町エフェソの、少数派キリスト者に宛てたパウロの手紙の一部が示された。
パウロはここで、「異教社会にあっても、神に従順に生きなさい」と記す。特に「あなたがたは、以前には暗闇でした(8節)」とはっきり言う。これは、私たちの過去を完全に否定するような言葉であり、
思わず不快になってしまう。

しかしこれは、パウロ自身の改心体験(使徒26:12以下)を通した、核心を突いた言い回しである。「あなたがたは、以前は暗闇そのものだった。しかし今は主に結ばれて光となっている」と、徹底して「暗闇」と「光」を区別して論じるのである。以前までの「罪(闇)」の中にあった自分が、悔い改めを通して、神の光によって照らされ、すべてが明るみに出される(14節)。だからこそ悔い改めを通して、しっかりと立ちなさいと、ここに記すのである。

「光の子として歩みなさい(8節)」と言う。「光の子」である以上、私たちが光なのではない。光は神であり、イエス・キリストなのである。私たちは「主に結ばれて(同)」初めて「光の子」になる。
だからこそ「何が主の御心であるか(17節)」を常に覚え、常に考え、歩みたい。
難波信義牧師

「再出発」 (出エジプト記34:1-10)8月26日説教要旨

示された34章は、32章の「金の子牛像事件」に関する出来事の山場である。
神との契約のしるしである石の板を授けられたモーセは、シナイ山を下りるが、民は金の子牛像を造りそれを礼拝していた。それを見たモーセは激しく怒って、その石の板を投げつけ、砕いてしまう。

それは怒りの表出でもあったが、他方、この石の板(契約のしるし)によって民が滅ぼされるとの判断もあった。だからモーセは必死に執り成し、神への赦しを願う(以上、32-33章)。

モーセの必死の執り成しによって、神は、イスラエルの民のためにもう一度、チャンスを示す。契約を刻む石の板を用意させ、再契約を結ぼうと、神の方から語りかけてくださる(1-3節)。
特に、再契約にあたり、神はご自身の名を再度示しつつ、神の本質をはっきりと示された。「主、憐れみ深く恵みに富む神…、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。(6-7節)」このままにイスラエルの民は赦され、神の民としてもう一度歩み出すことができた。

神と民との関係の回復・契約の再締結が豊かに描かれるこの場面だが、現代に生きる私たちにとっての石の板とはイエス・キリストである。主の十字架と復活によって、再契約が結ばれ、私たちは神の民として生きる。この原点を再確認して、感謝して歩みたい。  難波信義牧師
「律法か 真理か」 (ヨハネ 7:40-52)8月26日礼拝説教要旨

  これまでに数々の奇跡を行い、多くを 教えてきたイエスに対する、群衆の反応 が示される場面。イエスを好意的に評価 する人々もいた。「メシアだ」という評価 などはピッタリだと思うが、当時のメシ ア観は政治的解放者としてのメシア待望 であったため、真の救い主であるイエス にはあてはまらない。 他方、イエスの表面的なことだけを捉 えてイエスを否定する者もいた。偏見や 先入観によって、正しく判断することが 出来ない人間の姿を考えさせられる。 しかし好意的であれ否定的であれ、群 衆は心からイエスを救い主とは信じなか った。

信仰心があって、聖書の知識を持 っていても、イエスとの人格的交わりが なければ意味がないのだと示される。 しかし現代を生きる私たちにとって、 イエスとの人格的交わりとは何か。それ は、今も生きて働かれるイエスを信じる という事であり、弱さや欠け、破れに満 ちたそのままの私を主にゆだねると言う 事である。そこに真の悔い改めがなされ、 神の赦しが与えられる。 後半の場面に登場するニコデモは、イ エスとの出会い・人格的交わりによって、 ゆっくりではあったが変えられていった。 表面的なことに惑わされることなく、 見えない神の導きという真理を信じて、 誠実に歩んで行きたい。難波信義牧師