2010年1月4日月曜日

「イエスから祈りを学ぶ」(マタイ6:5-15)9月20日説教

先週の説教では、礼拝や祈りが子どもの時からの習慣として身に着くことの大切さについて話をした。しかし、どんな習慣にも、「慣れっこ」になる問題が伴う。
  私たちが最も「慣れっこ」になっているのは「主の祈り」である。マタイ6章とルカ11章には、イエスが弟子たちに祈り方を教えたことが記されている。マタイ福音書では「偽善者の(祈りの)ようであってはならない」と教え、「人の過ちを赦す」ことが勧められている。ルカ福音書では、祈りを教えた後、熱心に祈り求めることの大切さが教えられている。
  私たちは、ルカの記事からは熱心に祈り求める習慣が身に着くようになること、マタイの記事からは祈りが「慣れっこ」のマンネリに陥らないよう信仰の初心を忘れないでいることの大切さを学びたい。そして、習慣化した「主の祈り」を唱える時には、自分たちに負い目のある人々に関して、「赦しまし“た”」(マタイ6:12)、「“皆”赦します」(ルカ11:4)と心から言えるようでありたい。    山下慶親牧師

「同じようにしなさい」 (ルカ10:25-37)9月6日説教

8月末、2人のキリスト者の顔が思い浮かぶ。1人は先日死去した韓国の金大中元大統領である。彼は北朝鮮に太陽政策をとり、日本の大衆文化に門戸を開放した。もう1人はキング牧師である。彼は「私には夢がある」の演説で、黒人と白人が真に兄弟姉妹となることを訴えた。2人のノーベル平和賞受賞者の共通点は、敵対関係があった中で、良き隣人関係を創出しようと努力したことである。
  本日は衆議院の選挙日である。最近の議論では、日本の軍備増強や核武装を唱える声が聞こえる。核大国のオバマ大統領が核廃絶を呼びかけ始めた一方で、唯一の被爆国がこんな状態では情けないし、将来が心配でなる。私たちは世界中が隣人同士になることを夢見たい。  イエスは、ユダヤ人とサマリア人の対立関係があった中で、律法の専門家に「善いサマリア人」のたとえを語られた。私たちは隣人の範囲に関して、律法の専門家のような狭さではなく、イエスのような広さを持っていたい。そして「隣人となる」努力をしていくようでありたい。   山下慶親牧師

2009年8月20日木曜日

(ガラテヤ3:4; Ⅱコリント5:14-15)8月16日説教「犠牲を無駄にしない」

マキシミリアン・コルベ神父は1930年来日。6年間長崎で「聖母の騎士会」の活動をした。ポーランドに帰国後、1941年8月15日、奇しくも聖母マリア被昇天祭の日、アウシュヴィッツ収容所で召天した。
  ナチスに協力しないコルベ神父は収容所送りになる。脱走があった時、同じ収容者棟の全員が起立させられ、餓死刑室送りになる10人が選び出された。この時、神父は号泣するガヨヴィニチェクの身代わりになる。餓死刑室からは賛美が聞こえていたという。コルベ神父は他の9人を最後まで看取り、最終的に毒殺される。
  解放後、ガヨヴィニチェクは息子2人の戦死を告げられ、神父を死に追いやったとして冷たい視線を浴びる。しかし数年後、尊い犠牲が無駄にならないように、コルベ神父の愛を伝える決意をする。
  私たちは日本人として先の戦争の犠牲を無駄にしてはならない。またキリスト者としては、十字架にかかられた主イエスの犠牲を無駄にしてはならない。私たちには、尊い犠牲が無駄にならないように語り継ぎ、広く伝えていく使命がある。 山下慶親牧師

2009年8月12日水曜日

(ダニエル書3:1-18)8月9日説教「たといそうでなくても」

ダニエル書は前6世紀のバビロン捕囚の物語である。ユダ王国の少年たちは捕囚の地で成長し、優れた能力を発揮してネブカドネツァル王に重用された。しかし大きな試練に直面する。金の像を拝まなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるとの命令が出されたからである。この時、彼らは偶像崇拝を敢然と拒否した。ダニエル書は、神にこそ従うべきであることを主張した文書となっている。
ダニエルは実在の人物ではない。ダニエル書は400年昔の物語として、前2世紀に書かれた。当時はシリアが支配し、アンティオコス四世がユダヤ人の信仰を踏みにじり、大迫害を加えていた。ダニエル書は勇気と力と希望を持つように励ましている。
先の戦争で、日本のキリスト教界は、神ならぬ天皇を崇拝し、神社参拝を行った。殉教も辞さない姿勢はなかった。日本人にとって、確かに戦争は繰り返してはならないものである。それ以上に、日本のキリスト者にとって、戦時下の信仰的な過ちこそ繰り返してはならない。 山下慶親牧師

2009年8月4日火曜日

(出エジプト記20:1-20)8月2日説教「神のみを神とする」

イスラエルの民はエジプトで奴隷の重労働を強制されていた。神は彼らを解放へと導き、十戒は神の恩恵に対する応答として守るべき戒めとされた。
  日本は軍国主義の支配から解放されて、平和憲法を持つに至った。長い試練を経た後に公布された点で、十戒と日本国憲法には共通点がある。私たちは、十戒の場合と同様に、憲法を大事にしていくことが求められている。
  平和聖日にあたって、戦争の悲劇を繰り返さないためにも、戦争が十戒の各条項を破るものであることを再認識したい。戦時下では、神ならぬ天皇を現人神として、神社参拝と戦勝祈願が強制された。聖日礼拝は自由に行えず、徴兵制は親子の絆を断ち切った。日本軍は侵略した先々で無数の人を殺傷し、婦女子を暴行し、食糧や物資を盗み、資源獲得を狙った。国内では真実が言えず、報道は統制され、子どもたちには嘘が教えられた。
神ならぬものを神とせず、平和ならぬものを平和と呼ぶこととならないように、平和への思いを新たにしたい。                山下慶親牧師

(コヘレト11:9-12:1;ヘブライ1:32-11:2 7月26日説教「確信を捨ててはいけません」

草葉町教会は二度の大試練に遭遇した。1つは終戦直前の7月1日、空襲で会堂が焼失したことである。もう1つは1953年6月、大水害で会堂・牧師館が浸水被害に遭ったことである。国宗晋兄は教会百年誌に、「前の会堂は(建築後)十年にして焼失、今回は建築後四年にして水魔に襲われる。天意果たして何所にありや」と書いている。しかし、私たちが思い出すべく問いかけられているのは試練自体ではなく、試練を克服していった教会員たちの信仰である。  旧約「コヘレトの言葉」には、「若い日に造り主を覚えよ」という言葉がある。二度の試練を思うと、若い日の信仰を保ち続けて、空襲や水害の中から教会を復興させていった人々について考えさせられる。「ヘブライ人への手紙」の著者は、「自分の確信を捨ててはいけません」と言って、励ましを与える。私たちは、数十年前に焼け跡や泥土となっていた同じ場所に立って、礼拝している。信仰の確信を大事にしていきたいと思う。山下慶親牧師

2009年7月22日水曜日

(レビ13:1-8;ヨハネ9:1-12)7月19日説教「遣わされた者として」

ここで注目すべきは弟子たちの質問である(2節)。この背景には、「病気や不幸は皆、罪に対する正当な罰だ」という「応報思想」がある。
  しかし、イエスは「本人でも、両親でもない(3節)」と答える。この言葉は、自らの「病」が応報思想から来る「罪の現れ」であると信じ、社会的抑圧を当然の事として受けて来た人々への、驚きと解放の言葉ではないか。と同時に、私達に対する、意識の変革を求めているようにも感じられる。
  更にイエスは言う。「神の業がこの人に現れるためである(同上)」と。「この病人において、神の業が明らかにされるべきである」「病を通して神の業は豊かに実現する」と語る。
  私達の「意識」によって犯してしまった、「ハンセン病」という病気を排除するために、その「人間」を排除していたという事実。今後、同じ過ちは犯してはならない。また、この事に限らず、私達に与えられたそれぞれの場面で、私達一人一人の在り方が問われる。                       難波信義牧師