2010年1月4日月曜日

「落穂を残す」(ルツ2:14-18; ルカ12:13-21)10月11日説教

ルツ記は、ルツとしゅうとめナオミの物語である。2人の寡婦は夫の出身地ユダのベツレヘムで新しい生活を始める。ルツは大麦を収穫中の畑に出て、落穂を拾わせてもらう。律法には、穀物やオリーブやぶどうの収穫を取り尽くさないで、寄留者、孤児、寡婦のために残しておきなさいという戒めがあったからである。
  今年は日本におけるプロテスタント伝道150年である。日本を含めてアジア・アフリカの教会は、19世紀から20世紀にかけて、欧米の教会の世界宣教によって大きな支援を受けてきた。宣教師たちの働きの背後には、遠い外国の人々を助けたいという気持ちを持った無数の信徒たちがいたこと(現在もいること)を忘れてはならない。世界宣教は、必ずしも裕福ではない生活の中にあって、「落穂を残す」心を持った多くの人々によって支えられてきているからである。
  イエスは「愚かな金持ちのたとえ」を語られた。私たちは、すべての収穫を自分だけのものだと考えた金持ちの姿には見習わないようでありたいと思う。 山下慶親牧師

「命の息を吹き入れられて」(創世記2:4-25; エフェソ2:1-10)10月4日説教

創世記の二つ目の創造物語では、神が陶芸家のようにアダムを、外科医のようにエバを造り上げている。一見幼稚なこの創造物語には、三つの鋭い洞察がある。
第一は人間が土の塵から造られていて、やがては土に返ることである。人間も動物も変わりはない。第二は「命の息を吹き入れられて生きる者となった」ことである。多忙で「息切れ」しがちな私たちは、「安息日」の礼拝で「息継ぎ」をし「息を吹き返す」ことが必要である。第三は人間が罪を犯すことである。アダムとエバは禁じられた木の実を食べただけでなく、アダムはエバに、エバは蛇に罪の責任を転嫁した。園の木の間に顔を隠した2人は息苦しかったことであろう。罪は人間を窒息させるからである。
  パウロは、エフェソの人々が「以前は過ちと罪のために死んでいた」が、今ではキリストによって生かされていると言う。私たちは「神の作品」(口語訳)として、命の息を呼吸しながら、土の塵に戻る日が来るまで、「善い業を行って」信仰者の生涯を全うしていきたい。  山下慶親牧師

「命にまさるもの」 (詩編63:1-6; ヨハネ14:1-7)9月27日説教

長寿は人間の理想である。しかし、旧約聖書は長寿=幸福という考え方ではない。なぜならば、人生で「得るところは労苦と災い」(詩編90)に過ぎず、二千年の長寿を得ても、「幸福でなかったら、何になろう」(コヘレト6)とも述べているからである。
詩編63は神の「慈しみは命にもまさる恵み…命のある限り、あなたをたたえ(ます)」と歌う。この詩には「ダビデが荒れ野にいた時」という前書きが付されている。長寿であれば、それだけ多く人生の荒れ野を経験することになるが、同じ信仰的表明ができるようでありたい。
  イエスの生涯は幸福な長寿の対極であった。家庭生活で子や孫に恵まれたわけでなく、平安に命を全うされたのでもなく、非業の死を遂げられたからである。イエスは「わたしは命である」と言われた。その命は長寿とは質的に異なる「永遠の命」であり、私たちその命にあずかっている。長寿であれ、短命であれ、「命にもまさる」慈しみのもと、キリスト者としての生涯を全うしていきたい。 山下慶親牧師

「イエスから祈りを学ぶ」(マタイ6:5-15)9月20日説教

先週の説教では、礼拝や祈りが子どもの時からの習慣として身に着くことの大切さについて話をした。しかし、どんな習慣にも、「慣れっこ」になる問題が伴う。
  私たちが最も「慣れっこ」になっているのは「主の祈り」である。マタイ6章とルカ11章には、イエスが弟子たちに祈り方を教えたことが記されている。マタイ福音書では「偽善者の(祈りの)ようであってはならない」と教え、「人の過ちを赦す」ことが勧められている。ルカ福音書では、祈りを教えた後、熱心に祈り求めることの大切さが教えられている。
  私たちは、ルカの記事からは熱心に祈り求める習慣が身に着くようになること、マタイの記事からは祈りが「慣れっこ」のマンネリに陥らないよう信仰の初心を忘れないでいることの大切さを学びたい。そして、習慣化した「主の祈り」を唱える時には、自分たちに負い目のある人々に関して、「赦しまし“た”」(マタイ6:12)、「“皆”赦します」(ルカ11:4)と心から言えるようでありたい。    山下慶親牧師

「同じようにしなさい」 (ルカ10:25-37)9月6日説教

8月末、2人のキリスト者の顔が思い浮かぶ。1人は先日死去した韓国の金大中元大統領である。彼は北朝鮮に太陽政策をとり、日本の大衆文化に門戸を開放した。もう1人はキング牧師である。彼は「私には夢がある」の演説で、黒人と白人が真に兄弟姉妹となることを訴えた。2人のノーベル平和賞受賞者の共通点は、敵対関係があった中で、良き隣人関係を創出しようと努力したことである。
  本日は衆議院の選挙日である。最近の議論では、日本の軍備増強や核武装を唱える声が聞こえる。核大国のオバマ大統領が核廃絶を呼びかけ始めた一方で、唯一の被爆国がこんな状態では情けないし、将来が心配でなる。私たちは世界中が隣人同士になることを夢見たい。  イエスは、ユダヤ人とサマリア人の対立関係があった中で、律法の専門家に「善いサマリア人」のたとえを語られた。私たちは隣人の範囲に関して、律法の専門家のような狭さではなく、イエスのような広さを持っていたい。そして「隣人となる」努力をしていくようでありたい。   山下慶親牧師

2009年8月20日木曜日

(ガラテヤ3:4; Ⅱコリント5:14-15)8月16日説教「犠牲を無駄にしない」

マキシミリアン・コルベ神父は1930年来日。6年間長崎で「聖母の騎士会」の活動をした。ポーランドに帰国後、1941年8月15日、奇しくも聖母マリア被昇天祭の日、アウシュヴィッツ収容所で召天した。
  ナチスに協力しないコルベ神父は収容所送りになる。脱走があった時、同じ収容者棟の全員が起立させられ、餓死刑室送りになる10人が選び出された。この時、神父は号泣するガヨヴィニチェクの身代わりになる。餓死刑室からは賛美が聞こえていたという。コルベ神父は他の9人を最後まで看取り、最終的に毒殺される。
  解放後、ガヨヴィニチェクは息子2人の戦死を告げられ、神父を死に追いやったとして冷たい視線を浴びる。しかし数年後、尊い犠牲が無駄にならないように、コルベ神父の愛を伝える決意をする。
  私たちは日本人として先の戦争の犠牲を無駄にしてはならない。またキリスト者としては、十字架にかかられた主イエスの犠牲を無駄にしてはならない。私たちには、尊い犠牲が無駄にならないように語り継ぎ、広く伝えていく使命がある。 山下慶親牧師

2009年8月12日水曜日

(ダニエル書3:1-18)8月9日説教「たといそうでなくても」

ダニエル書は前6世紀のバビロン捕囚の物語である。ユダ王国の少年たちは捕囚の地で成長し、優れた能力を発揮してネブカドネツァル王に重用された。しかし大きな試練に直面する。金の像を拝まなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるとの命令が出されたからである。この時、彼らは偶像崇拝を敢然と拒否した。ダニエル書は、神にこそ従うべきであることを主張した文書となっている。
ダニエルは実在の人物ではない。ダニエル書は400年昔の物語として、前2世紀に書かれた。当時はシリアが支配し、アンティオコス四世がユダヤ人の信仰を踏みにじり、大迫害を加えていた。ダニエル書は勇気と力と希望を持つように励ましている。
先の戦争で、日本のキリスト教界は、神ならぬ天皇を崇拝し、神社参拝を行った。殉教も辞さない姿勢はなかった。日本人にとって、確かに戦争は繰り返してはならないものである。それ以上に、日本のキリスト者にとって、戦時下の信仰的な過ちこそ繰り返してはならない。 山下慶親牧師