2015年2月26日木曜日

11月30 日 の 日曜礼拝教 要 旨

「主が来られるときまで」 (ヤコブ5:1-11)

 難波信義牧師

 アドヴェント(待降節)に入った。「ア ドヴェント」とは「到来」という意味で ある。それは約2千年前のクリスマスを 指すと同時に、終末(終わりの時)にお けるキリストの再臨をも意味する。使徒 信条の中にも「かしこより来たりて」と あるのが、それである。私たちはこの期 間、クリスマスに備えつつ、キリストの 再臨にも備えるのである。 示された聖書にも「主が来られるとき まで忍耐しなさい(7節)」とある。この 手紙の受信者は様々な迫害や抑圧の中で 試練の中にあった。しかし、その試練に も終わりがある。それが終末・キリスト の再臨の時である。終末は、神に敵対す るものにとっては裁きの時だが、信仰者 にとっては救いの時・希望の時である。 試練は永遠ではなく、終わりの時がある のだと、知る事が大切である。 試練の時は信仰が問われる時である。 そのような時こそ、互いに不平を言わず (9節)、裁く方が戸口に立っている(10 節)ことを忘れてはならない。試練の時 こそ、私たちの信仰を確かにし、神を深 く知る時としたい。そのために、主の到 来・神の時を待つ忍耐を大切にしたい。 アドヴェントの日々、クリスマスに備 えつつ、忍耐を持って歩む私たちであり たい
 11月23日日曜礼拝の 説 教 要 旨

「わたしと一緒に」 (ルカ23:35-43)

 難波信義牧師

 降誕前節の中で、主の十字架の場面が 示されたが、この期間は信仰の基本に立 ち帰る時でもあるので、そこからこの場 面を見て行きたい。 特に、主の十字架の両側に立つ、二人 の犯罪人の十字架、その姿から示される。 彼らは結果的に、人生の最後に、主と出 会い、主に最も近い所にいることとなっ た。この大きな恵み・神の導きに対する、 人間の反応が、二人の犯罪人に象徴的に 描き出されている。 一人はイエスに言った。「メシアなら、 我々を救ってみろ」と。それは自分の考 える勝手な期待にメシアを押し込め、自 分にとって無力なメシアを拒絶し、のの しる人間の姿である。 それに対して、もう一人は神への畏れ と、悔い改めを持ってイエスに言った。 「あなたの御国においでになるときには、 わたしを思い出してください(42節)」 と。彼はイエスこそ、罪の赦しと、しが らみから解放を成す権限をお持ちの方な のだとの信頼を持って、このように求め た。そしてイエスは「あなたは今日わた しと一緒に楽園にいる」と宣言した。神 の恵みは豊かに届き、その恵みは無駄に はならなかった。 この恵みは私たちにも届いている。無 駄にすることなく、主と共に歩みたい。
11月16日礼拝 の 説 教 要 旨

「 奉 仕 」

難波信義牧師 (創世記18:1-8)

 バザーにあたり示された聖書は、奉仕 の意味について、私たちに示している。 「信仰の父」としてユダヤ教、キリス ト教、イスラームにおいて尊敬されてい るアブラハムだが、彼は信仰だけではな く、人に対しても親切であった。見ず知 らずの旅人を招き、食べきれないほどの 食事を準備し、丁重にもてなした。アブ ラハム自身も駆けずり回っている(2,6, 7節)。まさに愛とは、人のために身を粉 にして駆けずり回ることだと示される。 彼は何故そこまで親切に出来たのか。 ここに「信仰」が関わっている。すなわ ち、どんな人との出会いでも、その中に 神の御心・御業があるのだという信仰で ある「。私を愛してくださる神のためなら ば、それをしないわけにはいかない」と いう感謝から溢れ出る行為、それが「奉 仕」である。 アブラハムも、故郷を離れて「寄る辺 なき旅人」であった。その中で神の導 き・守りを知った。その感謝から、他の 旅人のもてなしにつながった。 さらに、このようにもてなした旅人が、 主ご自身であったという。旅人をもてな す・隣人に奉仕するという事は、私の家 に神を・私の人生にイエスを迎えるチャ ンスなのである。覚えて歩みたい。
11月9日の日曜礼拝 説 教 要 旨

 「あなたと共にいる」 (出エジプト3:7-15)

難波信義牧師

「モーセの召命」と呼ばれる場面。神 は、奴隷のように扱われていたイスラエ ル人をエジプトから解放するために、モ ーセを遣わそうとされる。神は、私たち 人間の苦しみに目を留めてくださる方で ある。どこか遠く・高い所におられるの ではなく、私たちの生きる現場・その歴 史・その現実にまで降って来てくださる のである。(7-8節)そして御業の実現の ために人間を用いる。 ところがモーセは神の言葉に対して難 色を示す。もっとも、モーセはエジプト からの逃亡者として外国で暮らしている 身であり、そこで家庭を作り平和に暮ら していた。歳を重ね、同胞を解放しよう などと言う情熱も失っていた。だから 「わたしは何者でしょう」と神に問うた。 しかし神にとって、モーセが何者なの か(つまりどういう状況であるか)は問 題では無い。その問いを無視して「わた しは必ずあなたと共にいる(12節)」と 言われる。神は遣わす者・用いる者と共 にいる。 この事実だけが、人間を導くのである。 そしてこの約束は、今を生きる私たちに も示される。私たちの生のきる場こそが、 遣わされた場である。そのために私たち 一人一人に言われる。「共にいる」と。
11月2日 日曜礼拝 の 説 教 要 旨

「主はわたしの羊飼い」 (詩編23編)

 難波信義牧師

召天者記念礼拝にあたり、天に召され た「友を包んだ主の光(讃385)」につい て思い起こしたい。 詩人は確信に満ちて語る。「主は羊飼い、 わたしには何も欠けることがない」と。 人は生きていれば、様々な欠けを思い、 経験させられる。本来、一つ一つを失い ながら生きるが人生だとも言える。しか しこの詩人は、失われるものではなく、 今、与えられているものに目を留め、感 謝する。まるで、羊飼いがいてくれれば、 それで充分だと言わんばかりに。私たち も人生の最後に差しかかった時に、この 詩人のように言える者でありたい。 さらに「死の陰の谷を行くときも、わ たしは災いを恐れない」と、はっきり言 う。確かに「死の陰の谷」の暗さにしか 目が行かないならば、それは実に不幸な ことだろう。問題の中でその問題にしか 目が行かない、病の中でその病にしか、 人生の終わりに「死」という現実にしか 目が行かないのは不幸である。この詩人 は「あなたがわたしと共にいてくださる」 という大きな恵み、その確信によって、 平安に満たされている。この詩人のよう に、一つ一つの恵みと、そり確信によっ て、召された人一人は「主の光」に包ま れていた。覚えて、今を歩みたい。
10月26日 の日曜礼拝 説 教 要 旨

「あなたを照らす輝き」 (ルカ11:33-36)

 難波信義牧師

短くも分かりにくいイエスの教えであ る。ここで「ともし火」とあるのは、イ エスご自身の事である。そしてそこで輝 いているのは「神の愛」である。イエス は神の愛の光を輝かせるために、この世 に置かれた「ともし火」なのだ。 さらに「あなたの体のともし火は目で ある。目が澄んでいれば、あなたの全身 が明るいが、濁っていれば、体も暗い。 (34)」とも言われる。古代の人々は「目」 を体の「窓」のように考えていた。これ を当てはめて考えると、その目(窓)が 澄んでいるか、濁っているかで、体に入 ってくる明るさもずいぶん違う。ゆえに、 私たちが輝いているか・いないかは、「と もし火」であるイエスの側の問題なので はなく、私たちの「目」の状態・私たち の側の問題なのである。 「だから、あなたの中にある光が消え ていないか調べなさい(35)」と主は言 われる(「あなたの中にある光」とは「と もし火」から入って来た光の事)。ひたす ら一心に、神の愛の光に向けて目を開い ていたのに、日々の出来事・あらゆるも のに心を奪われ、いつの間にか、生活か ら輝きが消えてしまってはいないか。そ の光が暗くなっていないか、それを点検 しなさいと言われる。
10月19日 日曜礼拝説教

「聖地サンティアゴ巡礼・800kの旅」

信徒伝道日礼拝:中山葉子姉

 今年の5月中旬から1ヶ月半近くスペ イン北部にある大聖堂、サンティアゴ・ デ・コンポステーラを目指して800キロ の旅をしてきた。そこはエルサレムと並 ぶ三大聖地のひとつで、使徒の一人・聖 ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の 亡骸が眠っていると言われている。 ここを訪れる巡礼者は年間17万人と 言われている。今回の旅でも様々な方々 との豊かな出会いと交わりがあった。ま た、ピレネーの山を越え、澄み切った青 空、どこまでも広がるメセタの大地、麦 の緑とアマポーラの赤、さらに世界遺産 に登録されているいくつもの荘厳なカテ ドラル…。これは歩いたからこそ見えた 景色であった。体調不良の長い道のりは 辛いこともあったが「神ともにいまして (465番)」の讃美歌を歌い励まされた。 サンティアゴのオブラロイド広場に到 着すると、近くにいた巡礼者たちと皆で 喜び合い、証明書を手に、ミサに参加。 ボタフメイロ(香炉)の煙を浴び、シス ターの美しい讃美歌を聞き、この場所に 立てた事に、今は亡き両親に感謝の気持 ちでいっぱいになった。 「主は羊飼い」「あなたがわたしと共 にいてくださる」(詩23編)と心から感 じることのできた、800キロの旅だった。 (文責:難波)