2008年12月19日金曜日

「神の言葉は実現する」(ルカ1:26-38)12月14日説教

「変化」をスローガンにしたバラク・オバマの演説には力があった。国民に希望を与え、国民も反応した。しかし、日本の首相たちは国民の期待に応える言葉発していない。日米の違いには、教会の伝統が関係しているように思える。教会の説教は言葉によって希望や力を与える。そして、人々は励ましを受けて前進する。聴衆を引き付けたオバマの演説は、まさに教会の説教のようであった。
  言葉に力があることは聖書の随所で示されている。神の言葉には人間を生かす力があり、必ず実現することになる。天使から受胎告知されたマリアは、言葉をしっかりと受けとめ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と応答した。
  現在の日本では、政治家たちの言葉が信頼性を失っている。しかし、私たちキリスト者は言葉(とくに神の言葉)に力があることを信じている。神が私たちの心に語りかけてくださっている言葉を、マリアのように受けとめて、新しい変化、望ましい変化が私たちの身に実現するようになることを願う。
山下慶親牧師

2008年12月13日土曜日

「目と耳を澄まして待つ」(マタイ24:36-44)12月7日説教

  救い主の御降誕を待つ待降節(アドベント)に入っている。私たちはどのように待つのだろうか。
マタイ福音書は終末に関するイエスの言葉を、24章から25章に寄せ集めている。10の見出しが付されていて、裁きの日が突如到来することが共通点となっている。今年の中国の大地震、ミャンマーのサイクロン、世界的金融危機は聖書のメッセージの現代性を感じさせる。私たちは目を覚ましていなければならない。
  災いだけでなく、幸いについても、目を覚ましていることが求められる。降誕物語では、夜通し目を覚まして番をしていた羊飼いたちと、東方の国で星の研究をしていた学者たちが、救い主の誕生を告げられている。祭司や律法学者、国王や都市住民は全く気づいていなかった。
 神殿にいた2人の高齢者シメオンとアンナは幼子を一目見て、救い主だと分かった。歴史の中で「目を覚まして」救い主の到来を待っていたからである。  私たちは心を静め、目と耳を澄まして、クリスマスの日を待つようにしたい。                            山下慶親牧師

2008年12月3日水曜日

解放する福音」(ルカ福音書4:16-24)11月30日説教

  明治から昭和の時代を通じての日本の代表的な社会事業家に、留岡幸助、石井十次、山室軍平を挙げることができよう。彼らは組合教会の伝統形成者であり、何れも備中高梁教会に連なる人々である。
  留岡は備中高梁の人で、米屋の養子として育った。子供時代に士族の子との喧嘩で不当な扱いを受け、謂わば非行少年の気持ちを味わい、身分差の苦汁をなめた。宣教師ケリーと金森通倫の伝道に触れ、神の前の万人の平等の教えに心を動かされ、ついには洗礼を受け、同志社で学んだ。留岡は早くから社会問題を意識。日本の二大暗闇、即ち遊郭と監獄の改革の必要性に目覚めた。教誨師の働きを通じて多くの囚人の劣悪な成長環境を知り、非行少年からの教育を志向し、米国で勉強後家庭学校を設立。当時一般的だった感化院ではなく、キリスト教的家庭こそ非行少年を導くとの信念があった。主イエスの到来により、貧しい者への解放の実現がもたらされた。福音は社会の暗闇に光をもたらす実践を導く。神が全ての者の人格を尊重される故である。 棟方信彦牧師

2008年11月20日木曜日

「国籍を天に持つ」(フィリピ3:12-4:1) 11月16日 説教

        
  アメリカ次期大統領にバラク・オバマが選出された。極めてユニークな背景を持った新大統領に、人種、宗教、国家を超えたリーダーシップを期待したい。
  パウロはローマ帝国各地に三度の宣教旅行を行った。彼は広い視野を持っていた。この点、イエスの直弟子たちと大きく違っている。彼の広い視野は、外国生まれのユダヤ人であったこと、当時の国際語であるギリシア語を話せたこと、ローマ市民権を持っていたことと関係あるだろう。しかし、それ以上に、彼には、「もはやユダヤ人もギリシア人もない・・・皆、キリストにおいて一つである」という信仰があった。
  パウロはフィリピの人々に宛てて、「わたしたちの本国は天に」あると書き送っている。キリスト者は地上の国籍は違っていても、天国という国に属している。そのパスポートには菊の紋章ではなく、十字架の紋章が刻印されている。天国に国籍を有するキリスト者として、パウロのように広い視野を持って、この世での生活をしっかりと送っていきたい。 山下慶親牧師

2008年11月15日土曜日

「宝が土の器に」(Ⅱコリント4:7-15) 11月6日説教

人間は有限な存在である。平均寿命が百歳にのびても、この事実は変わらない。
 創世記第2章の創造物語は、神が人間を土の塵で造られたと記している。人間は土の塵から造られて、土に帰っていく存在である。
  パウロはコリントの信徒たちに宛てて、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と書き送っている。パウロはもともと誇り高い人間であった。その彼が、謙虚にも自分たちは「土の器」だと語っている。彼は回心によってイエス・キリストこそが宝であり、その宝と比較すると、自分たちは土の器でしかないと考えたのであった。
  私たちは確かに有限な存在であり、土の器でしかない。しかし、私たちが目を向けるべきは、土の器に宝が納められていることである。パウロは、この宝によって、「外なる人」は衰えても、「内なる人」が日々新たにされると述べている。私たちは、自分たちのうちに納められている宝を大切に保ちながら、「日々新たにされて」歩んでいきたい。                            山下慶親牧師