ここで注目すべきは弟子たちの質問である(2節)。この背景には、「病気や不幸は皆、罪に対する正当な罰だ」という「応報思想」がある。
しかし、イエスは「本人でも、両親でもない(3節)」と答える。この言葉は、自らの「病」が応報思想から来る「罪の現れ」であると信じ、社会的抑圧を当然の事として受けて来た人々への、驚きと解放の言葉ではないか。と同時に、私達に対する、意識の変革を求めているようにも感じられる。
更にイエスは言う。「神の業がこの人に現れるためである(同上)」と。「この病人において、神の業が明らかにされるべきである」「病を通して神の業は豊かに実現する」と語る。
私達の「意識」によって犯してしまった、「ハンセン病」という病気を排除するために、その「人間」を排除していたという事実。今後、同じ過ちは犯してはならない。また、この事に限らず、私達に与えられたそれぞれの場面で、私達一人一人の在り方が問われる。 難波信義牧師
2009年7月22日水曜日
2009年7月16日木曜日
(ルカ福音書5:17-26)7月12日説教「瓦をはがす」
古代ユダヤでは、病気は自分の罪が原因だと考えられた。重病は大きな罪を犯したからであった。そのため不治の病の人々は身体的重荷に加えて、罪人という心理的・宗教的重荷が課せられていたことになる。このことを考えると、イエスが病気を癒された時、「罪は赦された」と宣言された背景が分かる。
「罪を赦す権威」を持つイエスには、豊かな人間性があった。そのことは重い皮膚病の人を癒された時、社会的タブーを犯して、「手を差し伸べてその人に触れ」られたことからも分かる(ルカ5:13)。このようなイエスは、中風の人を運んで来た人々の熱心な思いに目をとめられた。彼らは病人をなんとかしてイエスに会わせるため、屋根の瓦をはがして床ごとつり降ろした。イエスは病人を思い遣る彼らの期待に応えて、癒しの奇跡を行われたのであった。
現代でも奇跡は起こる。屋根の瓦まではいだ人々のように、なんとかしてイエスに会わせようと労を惜しまない人々がさまざまな場所で求められている。 山下慶親牧師
「罪を赦す権威」を持つイエスには、豊かな人間性があった。そのことは重い皮膚病の人を癒された時、社会的タブーを犯して、「手を差し伸べてその人に触れ」られたことからも分かる(ルカ5:13)。このようなイエスは、中風の人を運んで来た人々の熱心な思いに目をとめられた。彼らは病人をなんとかしてイエスに会わせるため、屋根の瓦をはがして床ごとつり降ろした。イエスは病人を思い遣る彼らの期待に応えて、癒しの奇跡を行われたのであった。
現代でも奇跡は起こる。屋根の瓦まではいだ人々のように、なんとかしてイエスに会わせようと労を惜しまない人々がさまざまな場所で求められている。 山下慶親牧師
(Ⅱコリント13:11-13)7月5日説教「恩寵のもとで」
同志社の神学生・辻密太郎は、1885年7月1日、熊本に向けて京都を出発した。9ヶ月の滞在で21名の受洗者が出て、教会の基礎が築かれた。しかし伝道は困難で、熊本英学校閉鎖後は教会の存亡さえ危うかった。教会創立百周年の記念誌を読むと、さまざまな困難があったことが分かる。財政以上に無牧期が大きな困難であったが、信徒の福田令寿さんや国宗晋さんが説教を担当して礼拝が継続された。
三井久牧師赴任後、熊本バンド記念会堂を建築し、関係資料保存の計画が立てられた。1936年、会堂完成。しかし新会堂は熊本空襲で全焼、貴重な資料も失われた。7月1日は「創立」記念日であると同時に「焼失」記念日となっている。4年以上会堂がなかったが、礼拝は続けられた。教会を愛する人々の熱意があったこと、神の「恩寵のもとで」歩むことの意味を考えさせられる。 来年は創立125周年。百年以降の歴史も書き残すことが大事である。幾多の問題は今もあるが、主に信頼し、先達に続きたい。神の豊かな恩寵があることを祈る。 山下慶親牧師
三井久牧師赴任後、熊本バンド記念会堂を建築し、関係資料保存の計画が立てられた。1936年、会堂完成。しかし新会堂は熊本空襲で全焼、貴重な資料も失われた。7月1日は「創立」記念日であると同時に「焼失」記念日となっている。4年以上会堂がなかったが、礼拝は続けられた。教会を愛する人々の熱意があったこと、神の「恩寵のもとで」歩むことの意味を考えさせられる。 来年は創立125周年。百年以降の歴史も書き残すことが大事である。幾多の問題は今もあるが、主に信頼し、先達に続きたい。神の豊かな恩寵があることを祈る。 山下慶親牧師
(マルコ13:1-2; ヨハネ14:25-31)6月28日説教「何を残すか」
内村鑑三は1894年「後世への最大遺物」という講演で、後世に残したいものを挙げた。うち三つは金、事業、思想である。しかしそれらを残すには才覚、力量、能力が必要である。内村は四つ目として、誰でも残せる「最大遺物」があり、それは「勇ましい高尚なる生涯」だと言う。信仰者の生涯をしっかりと生きることが「最大遺物」だと言うのである。
マルコ福音書には、壮麗な神殿に感嘆する弟子たちに、イエスが建物の崩壊を預言した話が記されている。古来、権力者は権勢誇示のため巨大建造物を建ててきた。ヨハネ福音書では、イエスが弟子たちに平和を残すと言い、「心を騒がせるな」「おびえるな」と言われたことが書かれている。歴史で明白なことは、イエスが弟子たちの心に残したものが大帝国の遺物よりも堅固だったことである。
私たちは、キリスト者として、内村の言う「勇ましい高尚なる生涯」を送れるようでありたい。草葉町教会の現会堂は堅固である。しかし、それ以上に、イエス・キリストの言葉は堅固である。 山下慶親牧師
マルコ福音書には、壮麗な神殿に感嘆する弟子たちに、イエスが建物の崩壊を預言した話が記されている。古来、権力者は権勢誇示のため巨大建造物を建ててきた。ヨハネ福音書では、イエスが弟子たちに平和を残すと言い、「心を騒がせるな」「おびえるな」と言われたことが書かれている。歴史で明白なことは、イエスが弟子たちの心に残したものが大帝国の遺物よりも堅固だったことである。
私たちは、キリスト者として、内村の言う「勇ましい高尚なる生涯」を送れるようでありたい。草葉町教会の現会堂は堅固である。しかし、それ以上に、イエス・キリストの言葉は堅固である。 山下慶親牧師
2009年6月25日木曜日
(マタイ17:14-20; 使徒3:1-8)「からし種一粒ほどの信仰」6月21日説教
イエスは弟子たちに、「からし種一粒ほどの信仰」もないと言われた。彼らが癒しの権能を授けられていたにもかかわらず(マタイ10:1)、病人を癒せなかったからである。日本におけるプロテスタント伝道150年の今年、新型インフルエンザが流行している。イエスは日本の伝道不振を嘆いて、からし種よりもはるかに小さな「ウィルス一つほどの信仰」もないと言われるかもしれない。
ウィルスには強力な増殖力と感染力がある。私たちの信仰には人々を生かす福音の増殖力と感染力が備わっているだろうか。江戸時代から明治初期、日本の権力者たちは、キリスト教が悪病であるかのように侵入を阻止しようとした。しかし福音は日本に入り、感染力を発揮して多くの人を新しい命へと導いた。
福音はウィルスと同じように人から人に伝わる。しかし病気や死に至らせるのではなく、喜びや命に至らせる。「からし種一粒ほどの信仰」を発揮して、歴代のキリスト者たちのように、山をも移す働きをなすことに加わっていきたい。 山下慶親牧師
ウィルスには強力な増殖力と感染力がある。私たちの信仰には人々を生かす福音の増殖力と感染力が備わっているだろうか。江戸時代から明治初期、日本の権力者たちは、キリスト教が悪病であるかのように侵入を阻止しようとした。しかし福音は日本に入り、感染力を発揮して多くの人を新しい命へと導いた。
福音はウィルスと同じように人から人に伝わる。しかし病気や死に至らせるのではなく、喜びや命に至らせる。「からし種一粒ほどの信仰」を発揮して、歴代のキリスト者たちのように、山をも移す働きをなすことに加わっていきたい。 山下慶親牧師
(マルコ10:13-16;ガラテヤ3:26-29)「みんな神さまの子ども」 6月14日説教
イエスは弟子たちに、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われた。「子どもの日」(花の日)の合同礼拝にあたって、「子どものようになる」ことについて考えたい。
私は『少女ポリアンナ』の物語が好きである。両親を亡くしたポリアンナはポリーおばさんに引き取られる。彼女は試練の中で明るく生きていく。周囲の大人たちの心も明るくされていく。その秘訣は父親から教わった「良かった探し」にあった。どんなことの中にも良いことを見つけ出すゲームである。百年前のこの物語は、親を亡くした多くの子どもたちを励ましたことであろう。
先週、アメリカの国際ピアノ・コンクールで辻井伸行さんが優勝した。全盲という試練の中で、両親、本人、周囲の人々が協力して「良かった探し」をした結果であったと言えないだろうか。私たちは、大人も子どもも、みんな神様の子どもとして、ポリアンナのように「良かった探し」ができるようでありたい。
山下慶親牧師
私は『少女ポリアンナ』の物語が好きである。両親を亡くしたポリアンナはポリーおばさんに引き取られる。彼女は試練の中で明るく生きていく。周囲の大人たちの心も明るくされていく。その秘訣は父親から教わった「良かった探し」にあった。どんなことの中にも良いことを見つけ出すゲームである。百年前のこの物語は、親を亡くした多くの子どもたちを励ましたことであろう。
先週、アメリカの国際ピアノ・コンクールで辻井伸行さんが優勝した。全盲という試練の中で、両親、本人、周囲の人々が協力して「良かった探し」をした結果であったと言えないだろうか。私たちは、大人も子どもも、みんな神様の子どもとして、ポリアンナのように「良かった探し」ができるようでありたい。
山下慶親牧師
2009年6月4日木曜日
「一人一人の上に」(使徒言行録2:1-13)5月31日説教
五旬祭の時、弟子たち一同の上に聖霊が降ったと書かれている。ドラマティックな描写であるが、文字どおりに受けとめる必要はない。なぜなら筆の立つ作者はドラマティックな表現を他の出来事の記述にも用いているからである。
聖霊降臨の結果、言葉の「隔ての壁」(エフェソ2:14)が取り除かれて、一同は「ほかの国々の言葉で話し」だしている。
教会の長い歴史において、言葉の「隔ての壁」が取り除かれて来た。福音が世界中に伝えられ、聖書が多くの言語に翻訳されてきた。現在のところ、聖書は世界の2,454の言語に翻訳されている。
聖霊は弟子たち「一人一人の上に」降っただけではない。10章では異邦人の上にも注がれていて、ユダヤ人たちは驚いている。聖霊は決して特定の人々の上に降るのではない。私たち「一人一人の上に」注がれているからである。
心の窓を開いて聖霊を受け入れることで、さまざまな「隔ての壁」(社会的・人間関係的・心理的)が取り除かれ、共に福音にあずかれるようでありたい。 山下慶親牧師
聖霊降臨の結果、言葉の「隔ての壁」(エフェソ2:14)が取り除かれて、一同は「ほかの国々の言葉で話し」だしている。
教会の長い歴史において、言葉の「隔ての壁」が取り除かれて来た。福音が世界中に伝えられ、聖書が多くの言語に翻訳されてきた。現在のところ、聖書は世界の2,454の言語に翻訳されている。
聖霊は弟子たち「一人一人の上に」降っただけではない。10章では異邦人の上にも注がれていて、ユダヤ人たちは驚いている。聖霊は決して特定の人々の上に降るのではない。私たち「一人一人の上に」注がれているからである。
心の窓を開いて聖霊を受け入れることで、さまざまな「隔ての壁」(社会的・人間関係的・心理的)が取り除かれ、共に福音にあずかれるようでありたい。 山下慶親牧師
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