アドヴェントからペンテコステまでは主イエスの御生涯に集中する「主の半年」と言う。それに対してペンテコステからアドヴェントの前までを「教会の半年」と言う。
「教会の半年」は、聖霊の導きと支配をしっかりと自覚しつつ歩む。具体的には「神」「教会」「私」「隣人」「社会」といった関係性の中で、それぞれを見つめ直す期間となる。「聖霊の導き」と言ってもピンと来ないかも知れない。しかし聖霊の働きは多岐にわたり、私たちに直接・深く関わっている。
パウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです(14節)」「あなたがたは…神の子とする霊を受けたのです(15節)」と言う。
思い返せば、私たちは聖霊によってイエスを知り、聖霊によって十字架の意味を知り、聖霊によって信仰が与えられ、生かされている。そうやって「神の子」とされている。「聖霊の導きと支配」を再確認した私たちは、既に歩み出している「教会の半年」を、神に対して・教会に対して・隣人に対して・社会に対して、誠実に生きる者でありたい。 難波信義牧師
2010年6月2日水曜日
2010年5月19日水曜日
「イエスの祈り(ヨハネ福音書17:1-13 )5月16日説教
この数週間で、イエスによる「訣別説教(13:31-17:26)」を部分的に見てきたが、示された場面はその最後の「祈り」箇所である。
昇天日(復活の主がそのまま天に昇られた日/イースターから40日後/今年は5月13日)に近いこの時を迎えた私達に、「決別(お別れ)説教」はふさわしい聖書箇所と言える。
この説教を閉じるにあたっての祈りの中で、イエスは、ご自分の命を代価として支払ってまでも、全ての魂を、神に向けたい・神に立ち返らせたい、そして滅び行く魂に永遠の命を与えたいという思いをもって、「父よ、時が来ました。」「子に栄光を与えて下さい」と祈る。さらに弟子たちを(私達を)一つにするために祈る。
「わたしたちのように、彼らも一つとなるため」と。お互いに「あなた」と「私」としての個々別々の存在を失うことなく、「一つ」としての関係性の中に生きるということでる。私達の人間関係(つながり)に深い配慮を持って、イエスは祈る。ここに感謝と希望を持って歩む私達でありたい。 難波信義牧師
昇天日(復活の主がそのまま天に昇られた日/イースターから40日後/今年は5月13日)に近いこの時を迎えた私達に、「決別(お別れ)説教」はふさわしい聖書箇所と言える。
この説教を閉じるにあたっての祈りの中で、イエスは、ご自分の命を代価として支払ってまでも、全ての魂を、神に向けたい・神に立ち返らせたい、そして滅び行く魂に永遠の命を与えたいという思いをもって、「父よ、時が来ました。」「子に栄光を与えて下さい」と祈る。さらに弟子たちを(私達を)一つにするために祈る。
「わたしたちのように、彼らも一つとなるため」と。お互いに「あなた」と「私」としての個々別々の存在を失うことなく、「一つ」としての関係性の中に生きるということでる。私達の人間関係(つながり)に深い配慮を持って、イエスは祈る。ここに感謝と希望を持って歩む私達でありたい。 難波信義牧師
2010年5月13日木曜日
「わたしは再び」(ヨハネ福音書16:16-24 )5月9日説教
十字架を直前にした「イエスの決別説教(13:31-17:26)」と呼ばれる緊迫した場面の一部だが、このやり取りの中でのイエスの言葉は、とても分かりにくい。弟子たちもそれが理解できず疑問を抱くが(17-18節)、弟子たちの疑問に対するイエスの返答も分かりにくい。弟子たちはイエスが語っている事の「内容」について聞きたかったが、イエスの答えは、ただ「結果」のみであった。まるでイエスは「的外れな答え」をしている。しかし、イエスはあえて難解に語ったのではないか・あえて的外れな答えをしたのではないか。この状況で、イエスが弟子たちに分かりやすく「十字架による死」を語ったとしたら、弟子たちは混乱し、悲嘆し、困惑しただろう。だからイエスは敢えて「十字架による死」には触れず、ただ、それにしっかり備えるように勧める(20節)。あえて本質を語らず、弟子たちの悲嘆・困惑に配慮されるイエスの姿がここにある。ここにもイエスの愛が示される。この配慮と愛に信頼して歩みたい。 難波信義牧師
2010年5月6日木曜日
「尊いかなめ石」(ペトロの手紙一2:1-10 )5月2日説教
この手紙は、小アジア(現在のトルコ)で「各地に離散して仮住まいをしている(1:1)」キリスト者に宛てて書かれたものである。各地にあって、伝統的・宗教的背景が強い中で、少数者として信仰を守っても、排他的な環境では、危険視されることもあり、そのために自らの信仰やアイデンティティが揺らぐキリスト者もいた。そんな中で、示された箇所は、今一度、しっかりとしたアイデンティティを持ち直すように勧める。そのためにまずイエスご自身を「尊い生きた石(4節)」「尊いかなめ石(6節)」「親石(7節)」だと言う。イエスは当時の社会・人々から見捨てられたが、神にとっては尊い生きた石であり、まさに希望の「かなめ」となった。さらにこれを前提としつつ、「あなたがた自身も生きた石として用いられ(5節)」ていると言う。神にとって尊い生きた石であるイエスを受け入れ、そのイエスを土台として、私達一人一人も、生きた石だと言うのだ。この自覚を新たにしつつ、用いられて生きる者でありたい。 難波信義牧師
2010年4月28日水曜日
「互いに愛し合う」(ヨハネ福音書13:31-35 )4月25日説教
「最後の晩餐」で、弟子たちの足を洗ったイエスは(13章冒頭)、その時、弟子たちに「決別説教」を語る。示された聖書は、その一部である。場面の流れを踏まえると、「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを…この上なく愛し抜かれた。(1節)」この愛を持ってイエスは弟子たちに最後の教えを語る。ここでは特に明確な「別れ」を意識しつつ(33節)、「互いに愛し合いなさい」との「新しい掟」を示す(34節)。弟子たちとの別れが決定的であるからこそ、イエスは愛を持って、弟子たちに「自立」を促す。「依存」を生み出すような「愛」は、本当の「愛」ではない。悲しみを乗り越えて自立へと向かわせるのが本当の「愛」なのだと、イエスは教えているのではないか。「互いに愛し合いなさい」とは、依存し合うのではなく、自立して・自立者として初めて「互いに愛し合う」事ができる。「仕えられる」事ではなく、「仕える」愛を実践する私達でありたい。 難波信義牧師
2010年4月22日木曜日
「イエスは良い羊飼い」(ヨハネ福音書10:7-18 )4月18日説教
イエスは「わたしは良い羊飼いである」と言われる。救い主と人間の関係を、羊飼いと羊に譬えて言う。特に、実際にこれが語られた社会背景は、羊飼いと羊は身近な存在であったため、より分かりやすいものだった。現代に生きる私達も、聖書・例えば詩編23編などを通して、その関係を理解し、ここから、平和に満ちた、穏やかな風景をイメージする。しかし、当時の現実的な関係はもっと厳しいものだった。羊飼いは羊を大切にし、襲い来る野獣や強盗には、体を張って羊を守る。聖書が、救い主の姿を羊飼いに譬える場合、私達が思い浮かべなければならないのは、こう言う羊飼いの姿である。まさしく、体を張って・命をかけて、羊(人間)を守る。そしてこの箇所のイエス・キリストの姿は、まさしく、そのような羊飼いの姿なのである。主は、悩み多い・欠け多い・破れ多い私達一人一人を、全存在をかけて、守り、導いて下さる。ここに感謝と希望を持って、主にゆだねつつ歩む私達でありたい。
難波信義牧師
難波信義牧師
「平和があるように」(ヨハネ福音書20:19-29 )4月11日説教
前半(19-23節)はイースター当日の出来事であり、復活の主が弟子たちに現れるという場面。続けて短く、その週の間の出来事があり(24-25節)、さらに一週間後の出来事へと続く(26-29)。イエスの死の現実に絶望し、自分自身の事も不安の中で「恐れ」ていた弟子たちに、復活の主が現れ「平安」を告げる。「鍵(19節)」は、「恐怖」の中で、殻に閉じこもる・心を閉ざす弟子たちを表しているのではないか。その殻を破るように、イエスはその真ん中に立たれる。しかしその一週間後、再び恐怖の中で殻に閉じこもる弟子たちの姿がある。トマスを除く弟子たちは、復活の主に出会っていながら、結局は「不信」に陥っていた。この弟子たちの真ん中に、再び復活のイエスが立たれる。不信を繰り返す弟子たちに、イエスはさらに具体的に、ご自身の御傷を示す。「触りなさい。あなたが再び信じるようになるために、わたしは何度でもその苦痛を負おう」と言われるイエスの姿が示される。この主に信頼して、歩む私達でありたい。 難波信義牧師
登録:
投稿 (Atom)