2014年9月20日土曜日

9月14日 の 礼拝説 教 要 旨

「神の国から遠くない」

(マルコ12:28-34) 難波信義牧師

イエスは重要な掟について、まず「あ
なたの神である主を愛しなさい」と、申
命記6章5節を引用した。そもそもこれ
は、イスラエルが荒れ野の40年を経て、
ようやく神の約束された土地に入ろうと
している、その直前に語られた神の言葉
であるが、この時、神は「あなたたちは、
エジプトの国を出た日から、ここに来る
まで、主に背き続けてきた(申9:7)」と
言われた。この言葉と共に「あなたの神
である主を愛せ」と言われたのである。
つまりこの命令は強制的なものではなく、
主に背き続けた人間を、なおも赦して受
け入れようとする神の愛に基づいた「招
き」なのである。
イエスは続けて、第二の掟として「隣
人を自分のように愛しなさい」と、レビ
記19章18節の言葉を引用した。イエ
スはこのように語りながら、問いかけて
きたこの律法学者を、自分を愛するよう
に愛される。しかし当の本人は、このイ
エスの愛に気付いていない。だからイエ
スは、同じ思いを持ち、同調した彼を評
価しつつも「神の国から遠くない」と言
われたのだ。「わたしの愛に気付きなさい」
「十字架による神の赦しと恵みそのもので
ある、わたしの愛に気付きなさい」と招
いてくださっている。

2014年9月10日水曜日


9月7日 の 礼拝説 教 要 旨

「わたしの息子なら」

(マルコ12:1-12) 難波信義牧師

「ぶどう園と農夫」というイエスの譬
え話であるが、譬えられている事は分か
りやすい。ぶどう園の主人は神であり、
そのぶどう園はイスラエル、そして農夫
はユダヤ人たち・特に律法学者、祭司長
という宗教指導者たちである。そして主
人に遣わされるしもべたちは過去の預言
者たちであり、主人の息子はイエスであ
る。と言う事は、この譬えは、ユダヤ人
指導者の失敗話というただそれだけの意
味なのだろうか。
もちろん、そうではない。愚かに映る
農夫たち、すなわち宗教指導者たちだが、
その姿は私たちの姿でもある。地球資源
の奪い合い、環境破壊、領有権争いなど、
まるで「世界の所有者は人間である」と
言わんばかりの愚行は、「農夫が農夫であ
る事をわきまえていない」象徴である。
個人的な事においても、一人一人の能力
や富は、神から託されているものであり、
神の栄光のために用いるためのものであ
るのに、「私の人生をどうするか」という
事しか考えない。
そんな私たちに、神は破壊的裁きでは
なく、農夫としてわきまえるよう教える
ために何度もしもべを遣わし、最後にイ
エスを遣わされたのである。この招きを
自覚しつつ、感謝して歩みたい。
8月31日礼拝 の 説 教 要 旨

「憐れみを求めて」

(マルコ10:46-52) 難波信義牧師

目の見えないバルティマイを癒すとい
う場面だが、「安心しなさい。立ちなさい。
お呼びだ。(49節)」という言葉が印象的
である。これはイエスの言葉ではなく、
バルティマイを招くイエスの言葉を聞い
た、周囲の人々の言葉であるが、この場
面では大きな意味を持っている。
「安心しなさい」とあるように、バル
ティマイは不安の中にあった。あらゆる
癒しの奇跡を行われるイエスを前に、そ
れは唯一の希望であると同時に、「拒絶さ
れるかも知れない」という思いもある。
事実、周囲の人々は最初、叫ぶ彼を黙ら
せようとした。その不安に対して「安心
しなさい」との言葉がかけられる。
「立ちなさい。お呼びだ」とは、目の
見えない人に対しては冷たく、厳しい言
葉のように思うが、イエス自身「呼んで
きなさい」と言われたように、ここには、
暗闇の中で、道端に座り込む事しかでき
なかった彼を立ち上がらせ、そこから救
い出し、一歩を歩み出さようとする、慰
めに満ちた呼びかけ・招きなのである。
彼は「上着を脱ぎ捨て…イエスのところ
に来た(50節)」。それはこれまでの生活
を彼自身が捨て去ったという事である。
新しく歩み出すための招きと、具体的
な力を与えてくださる主に感謝。
8月24日の 礼拝説 教 要 旨

「無力なままで」

(マルコ10:13-16) 難波信義牧師

イエスが子どもを祝福するという、と
ても短い場面だが、中心は「子どもたち
をわたしのところに来させなさい。妨げ
てはならない。神の国はこのような者た
ちのものである。はっきり言っておく。
子どものように神の国を受け入れる人で
なければ、決してそこに入ることはでき
ない。(14-15節)」である。
特に、子どもは神からの賜物・祝福の
しるしと捉えられる反面、未熟さゆえに
律法を守る事のできない愚かな存在と捉
えられていた背景にあって「、子どもたち
をわたしのところに来させなさい」と語
られたイエスの言葉に大きな意味がある。
さらにイエスは「子どものように神の
国を受け入れる人でなければ…」と言わ
れた。イエスがここで言わんとする事は、
子ども特有の純粋さや素直さ(さらにそ
こから来る残酷さ)についてではなく、
無力さなのである。子どもたちは、保護
者の助けなしには生きて行けない。しか
し、そのような者こそ、神の救いにあず
かるのである。イエスはこの観点・視点
を持って、当時の社会においては、全く
無力で、取るに足らない小さな子どもを
(また小さくされた存在を)、その無力さ
故に、「そのような者こそ神の救いにあず
かるのだ」と宣言され、喜んで抱き上げ、
祝福してくださるのである。
無力なままで主の前に立ちたい。

2014年8月20日水曜日

8月17日礼拝 の 説 教 要 旨

「命にあずかる」

(マルコ9:42-50) 難波信義牧師

「罪への誘惑」との表題が付けられた
箇所だが、実に厳しい、あるいは脅しの
ようなイエスの言葉が詰まっている。
しかしイエスが語っている対象は「わ
たしを信じる…小さな者の一人(42)」
であり、それは弟子たち・後の時代の弟
子たち・そして現代の私たちである。そ
の小さな一人が、「つまずき」つまり、誘
惑や迫害によって神から離れてしまう・
信仰を失ってしまうなら、それは神にと
って大変な事なのだ。それを示すのが、
ここに記されている非常に厳しい言葉な
のである。
43節以下も「小さな一人」に語られ
た事として読まなければならず(決して
迫害者への脅しではない!)、つまずきが
自分の内にある事が語られる。そのつま
ずきによって信仰が失われないために、
「片方の手を切り捨てろ」「片方の足を切
り捨てろ」「片方の目をえぐり出せ」と言
うのだが、これらの言葉によって示され
るのは、「命にあずかる方が良い」「神の
国に入る方が良い」ということである。
「いかなるものによっても、神から引き離
されてしまうようなことがあって欲しく
ない」という神の熱い思いを、イエスは
ここで語られる。
この神の思いを受け止め、イエスの導
きに信頼して、信仰の道を歩みたい。
8月10日礼拝 の 説 教 要 旨

「信仰のないわたしを」

(マルコ9:14-29) 難波信義牧師

霊に取りつかれた息子を癒してもらう
ため、父親がイエスの弟子たちのところ
へやって来た。この時、たまたまイエス
は不在であり、弟子たちが悪霊からの解
放を行おうとしたが出来なかった。その
ために、そこに居合わせた律法学者たち
と議論になり、父と息子を放ったらかし
に、議論は白熱していた。
そこへイエスが戻って来て、その一連
の事を含めて「なんと信仰のない時代な
のか(19)」と嘆かれた。弟子たちは信
仰の欠如によって悪霊の追い出しが出来
なかった。律法学者たちは信仰の欠如に
よってイエスの弟子たちを責める事しか
できなかった。さらにこの父親も、「おで
きになるなら…助けてください(22)」
と言い、イエスから「『できれば』と言う
か(23)」と信仰の欠如を問われる。
父親は慌てて「信じます。信仰のない
わたしをお助けください(24)」と叫ん
だ。「わたしを」とあるように、助けても
らわなくてはならないのは、息子である
以前に、信じる事が困難な自分自身なの
である。この父親の「気付き」は、弟子
たちにこそ必要であった。だからイエス
は「祈りによらなければ(29)」と教え
られたのだ。私たちも自らの無力さを自
覚し、そのままを神にゆだね、御業を求
めて歩む者でありたい。

2014年8月7日木曜日

8月3日 の 説 教 要 旨

「正義を洪水のように」

(アモス5:21-27) 難波信義牧師

「祭りにまさる正義」との表題が付け
られた場面。神ははっきりと「お前たち
の祭りを憎み、退ける(21節)」と言わ
れる。「祭り」とは私たちで言う「礼拝」
の事だが、アモスが活動した時代のイス
ラエルは社会的不正がはびこり、指導者
たちや上流階級の人々は私利私欲に走り、
祭儀(礼拝)は堕落していた。その現状
に対して、神は怒りをもって語られる。
その中で神の求める事はただ一つ。「正義
を洪水のように、恵みの業を大河のよう
に、尽きることなく流れさせよ。」(24節)
平和聖日にあたり、否、今を生きる私た
ちに示された御言葉である。
私たちは、かつてこの国が積極的に戦
争を行い、多くの人々を戦場に駆り立て、
戦争に巻き込み、たくさんの命を奪った
事を忘れない。一部の人々の欲望のため
に、たくさんの命が捨てられた事を忘れ
ない。その中にあって、上記の言葉と共
に、イエスが語られた「平和を実現する
人々は幸いである。その人たちは神の子
と呼ばれる(マタイ5:9)」との言葉が響
いてくる。
富める者が貧しい者から搾取するのは、
神が求める平和ではない。強い者が弱い
者を圧迫するのは、主が喜ばれる平和で
はない。人間が勝手に定める「正義」で
はなく、神の前での正義を守り、平和を