2010年5月13日木曜日

「わたしは再び」(ヨハネ福音書16:16-24 )5月9日説教

十字架を直前にした「イエスの決別説教(13:31-17:26)」と呼ばれる緊迫した場面の一部だが、このやり取りの中でのイエスの言葉は、とても分かりにくい。弟子たちもそれが理解できず疑問を抱くが(17-18節)、弟子たちの疑問に対するイエスの返答も分かりにくい。弟子たちはイエスが語っている事の「内容」について聞きたかったが、イエスの答えは、ただ「結果」のみであった。まるでイエスは「的外れな答え」をしている。しかし、イエスはあえて難解に語ったのではないか・あえて的外れな答えをしたのではないか。この状況で、イエスが弟子たちに分かりやすく「十字架による死」を語ったとしたら、弟子たちは混乱し、悲嘆し、困惑しただろう。だからイエスは敢えて「十字架による死」には触れず、ただ、それにしっかり備えるように勧める(20節)。あえて本質を語らず、弟子たちの悲嘆・困惑に配慮されるイエスの姿がここにある。ここにもイエスの愛が示される。この配慮と愛に信頼して歩みたい。 難波信義牧師