2014年9月10日水曜日


9月7日 の 礼拝説 教 要 旨

「わたしの息子なら」

(マルコ12:1-12) 難波信義牧師

「ぶどう園と農夫」というイエスの譬
え話であるが、譬えられている事は分か
りやすい。ぶどう園の主人は神であり、
そのぶどう園はイスラエル、そして農夫
はユダヤ人たち・特に律法学者、祭司長
という宗教指導者たちである。そして主
人に遣わされるしもべたちは過去の預言
者たちであり、主人の息子はイエスであ
る。と言う事は、この譬えは、ユダヤ人
指導者の失敗話というただそれだけの意
味なのだろうか。
もちろん、そうではない。愚かに映る
農夫たち、すなわち宗教指導者たちだが、
その姿は私たちの姿でもある。地球資源
の奪い合い、環境破壊、領有権争いなど、
まるで「世界の所有者は人間である」と
言わんばかりの愚行は、「農夫が農夫であ
る事をわきまえていない」象徴である。
個人的な事においても、一人一人の能力
や富は、神から託されているものであり、
神の栄光のために用いるためのものであ
るのに、「私の人生をどうするか」という
事しか考えない。
そんな私たちに、神は破壊的裁きでは
なく、農夫としてわきまえるよう教える
ために何度もしもべを遣わし、最後にイ
エスを遣わされたのである。この招きを
自覚しつつ、感謝して歩みたい。
8月31日礼拝 の 説 教 要 旨

「憐れみを求めて」

(マルコ10:46-52) 難波信義牧師

目の見えないバルティマイを癒すとい
う場面だが、「安心しなさい。立ちなさい。
お呼びだ。(49節)」という言葉が印象的
である。これはイエスの言葉ではなく、
バルティマイを招くイエスの言葉を聞い
た、周囲の人々の言葉であるが、この場
面では大きな意味を持っている。
「安心しなさい」とあるように、バル
ティマイは不安の中にあった。あらゆる
癒しの奇跡を行われるイエスを前に、そ
れは唯一の希望であると同時に、「拒絶さ
れるかも知れない」という思いもある。
事実、周囲の人々は最初、叫ぶ彼を黙ら
せようとした。その不安に対して「安心
しなさい」との言葉がかけられる。
「立ちなさい。お呼びだ」とは、目の
見えない人に対しては冷たく、厳しい言
葉のように思うが、イエス自身「呼んで
きなさい」と言われたように、ここには、
暗闇の中で、道端に座り込む事しかでき
なかった彼を立ち上がらせ、そこから救
い出し、一歩を歩み出さようとする、慰
めに満ちた呼びかけ・招きなのである。
彼は「上着を脱ぎ捨て…イエスのところ
に来た(50節)」。それはこれまでの生活
を彼自身が捨て去ったという事である。
新しく歩み出すための招きと、具体的
な力を与えてくださる主に感謝。
8月24日の 礼拝説 教 要 旨

「無力なままで」

(マルコ10:13-16) 難波信義牧師

イエスが子どもを祝福するという、と
ても短い場面だが、中心は「子どもたち
をわたしのところに来させなさい。妨げ
てはならない。神の国はこのような者た
ちのものである。はっきり言っておく。
子どものように神の国を受け入れる人で
なければ、決してそこに入ることはでき
ない。(14-15節)」である。
特に、子どもは神からの賜物・祝福の
しるしと捉えられる反面、未熟さゆえに
律法を守る事のできない愚かな存在と捉
えられていた背景にあって「、子どもたち
をわたしのところに来させなさい」と語
られたイエスの言葉に大きな意味がある。
さらにイエスは「子どものように神の
国を受け入れる人でなければ…」と言わ
れた。イエスがここで言わんとする事は、
子ども特有の純粋さや素直さ(さらにそ
こから来る残酷さ)についてではなく、
無力さなのである。子どもたちは、保護
者の助けなしには生きて行けない。しか
し、そのような者こそ、神の救いにあず
かるのである。イエスはこの観点・視点
を持って、当時の社会においては、全く
無力で、取るに足らない小さな子どもを
(また小さくされた存在を)、その無力さ
故に、「そのような者こそ神の救いにあず
かるのだ」と宣言され、喜んで抱き上げ、
祝福してくださるのである。
無力なままで主の前に立ちたい。