2010年8月19日木曜日

(マルコ10:46-52)「あわれみをたまえ」8月15日説教

「ダビデの子イエスよ」とストレートに求める盲人バルティマイと、それを叱りつけて黙らせようとする人々とが対照的に描き出される。

人々はイエスの素晴らしさに触れながらも「ナザレのイエス」という理解しかない。「ナザレの町出身のイエス」と言う事で、「ただの人イエス」としか見えていないのに対して、バルティマイは「ダビデの子イエス」と、つまり古くから預言されてきた「救い主」「メシア」としてイエスを見ている。

物理的に「見える」人々はイエスを正しく見ることはなく、盲人であったバルティマイはイエスを「私の救い主」として見ているのだ。さらに彼は「わたしを憐れんでください」とイエスに求める。

「自分の真ん中に神さまが必要だ」「私は神の憐れみによってのみ生かされる」と…。私たちは、自分が憐れみを受けなければならない存在だ、と言う事をどれだけ自覚しているか。「憐れみを受けるほど惨めな存在ではない」と…。

しかし、神の前に、信仰を持って、委ねて生きる事こそが「神の憐れみの中で生きる」と言う事だ。もっと素直に「あなた無くしては生きられない」と求める者でありたい。 難波信義牧師

(マルコ10:13-16)「手を置いて祝福された」8月8日説教

イエスのもとに、こどもたちを連れてきた人々に対して、弟子たちは「叱った」。当時の子どもに対する理解は「宗教的な教えを理解できない存在」というものであり、そこから「イエス様を疲れさせるだけ」という思いもあっただろう弟子たちは、こどもの存在を排除しようとした。

「叱った(13節)」弟子たちに対して、イエスはもっと厳しく対応した。すなわち「憤った(14節)」。何がイエスをここまで怒らせたのか。弟子たちはこどもたちを「役に立たない存在」として捉えた。

しかしイエスは「役に立つかどうか」でこどもたちを見ない。「あなたがあなたらしく在る」と言う事、その「存在の喜び」をもってこどもたちを(ひいては私たちを)見ておられる。「あなたの存在自体が尊いのだ」と。その上で「子供のように神の国を受け入れ(15節)」なさい、と教える。

この時、こどもたちは何も分からないままに連れてこられた。そして何も分からないままに祝福された。つまり「子供のように」とは、「導かれるまま」「ありのまま」と言う事なのだ。存在を喜んでくださる神が、私のありのままを祝福してくださる。ここに感謝と信頼を持って歩む者でありたい。                  難波信義牧師

(1コリント12:12-26)「共に苦しみ、共に喜ぶ」(平和聖日)8月1日説教

この手紙を記したパウロは、この箇所で「体の比喩」を用いながら、教会の「一致」を勧める。この「体の比喩としての教会」または「キリストの体なる教会」という理解はパウロの独特な理解である。

他の手紙の中でパウロは「両者を一つの体として神と和解させ…(エフェソ2:16)」と記し、教会はイエス・キリストによって創られた一つの体であり、神の創造だと言う。教会は一つの体ではあるが、しかし今日の箇所を通して、恵みの賜物によって多様であり豊かであるとも言う。

民族的な違い・社会的な違いという豊かな多様性を認めつつ(13節)、「多様であり、一つである」と言う。その根拠は、教会はイエス・キリストによって創られた一つの体であり、神の創造だから。にもかかわらず、その教会が一致を欠いているなら、それは人間が一致を破壊している事になる(15-17節)。

他者を認めず軽蔑するならば、それは神への反逆なのだ(21-24節)。「平和聖日」にあたり、この「教会の一致」から、さらに「世界の一致」へと広げて考えたい。様々な立場の違いを認め合いつつ、共に苦しみ、共に喜びつつ、平和のために一致して歩みたい。                       難波牧師

( マルコ9:33-37 )「仕える者に」7月25日説教

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。(35節)」とのイエスの言葉が響く。思えば、一番先を行く者は、後ろを行く人々の姿が見えない。

一番であるが故に自分以外の誰も見えない。しかし一番後になる者は、先を行く全ての人を見る。時には先を行く人の愚かさや、苦しんでいる人・悲しんでいる人の全てを見る。

イエスはそのような「すべての人に仕える者になりなさい」と言われた。この「仕える者」とは給仕をする人の事を指す。この意味を踏まえつつ「仕える者」を考えるならば、それは、他者(隣人)に食事を提供し、その人の「命」や「生活」が生き生きと営まれるように仕える人であり、一人の人間を生かすために根底から支える人の事である。

実は、このように生きる事が出来る時、自分の存在の尊さにも気付かされ、それによって自分自身の「生」にもつながる。イエスからの「何を議論していたのか(33節)」すなわち「何を考えて(大切にして)生きようとするのか」との根本的な問いかけを常に覚えて歩む私たちでありたい。    難波信義牧師 

(マルコ8:22-26)「イエスはもう一度」7月18日説教

イエスの癒しの奇蹟が示される場面。「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。(22節)」と始まる。「癒してほしい」ではなく「触れてほしい」と言うのだ。

イエスはこれまでも、目の前に在る様々な苦しみを負っている一人一人と向き合い、触れ合い、知り合い、その上で癒しの業を示された。このイエスの癒しの本質を知った人々が、一人の盲人を連れて来て「触れてほしい」と願うのだ。

ここに双方の熱い思いが描き出されている。さらにこの場面は「段階的な癒し」という珍しい場面になっている。1度目の癒しでぼんやり見えるようになり、2度目の癒しで「はっきり見えるようになった。(25節)」この前後には、弟子たちのイエスに対する無理解が何度も示される。つまり弟子たちはこの時、イエスをぼんやりとしてしか理解していなかった。

そして十字架と復活の出来事を通して、はっきりイエスを理解したのだ。そんな弟子たちへの皮肉・そして私たちへの警告が、この癒しの業から示される。イエスをキリスト(私の救い主)としてはっきり見つつ、直接的に触れ合う豊かな人間関係に生きる私たちでありたい。          難波信義牧師

(マルコ8:14-21)「まだ悟らないのか」7月11日説教

イエスによる2つのパンの奇蹟(6:30以下/8:1以下)を体験した弟子たちだったにもかかわらず、その直後、パンの問題で困惑・混乱してしまう。

弟子たちは「その時」は「その時」で感動し、感謝し、イエスを信じるが、「今」は「今」の問題に捕らわれてしまっている。だからイエスは「まだ悟らないのか」と嘆く。すなわち「ただ神にのみ信頼しなさい」と教えるのだ。さらに「フィリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」(15節)と言われた。

フィリサイ派のように、神の律法をねじ曲げ、それを守る事のみが信仰の証であるような、「神を抜きにした熱心さ」で信仰があついなどと考えるな、と言う。また逆に、ヘロデのように、信仰と社会的欲望を天秤にかけ、私利私欲に走り、神を抜きにして生きようとするな、と言う。

このようにファリサイ派もヘロデも、立場は両極端でありながら、どちらも「神を抜きにして、自分の生活を規定している」という点においては全く同じだ、と言うのだ。このイエスの言葉に自らを省みつつ、ただ神にのみ信頼して生きる私たちでありたい。    難波信義牧師

(マルコ4:30-34)「神の国の秘密」7月4日 125周年記念礼拝説教

創立記念にあたり、教会の歴史を受け継ぐ使命について、私たちの信仰の教科書である聖書を共に学びたい。聖書の読みは一様ではないが、自分にひきつけて、その歴史を飛び越えて自分に語りかけられている御言葉として読まなければ、何の意味もない。

特に大切なのは、言葉の仕組みに注意する事。聖書は「たとえ」という仕組みを使っている。「たとえを用いずに語ることはなかった(34節)」というほど、イエスは「多くのたとえで御言葉を語られた(33節)。」

イエスは、神の国は「たとえ」でしか説明できないもの、本気で心を開き、思いめぐらす人にだけ、分かるような秘密の性質があるのだと言われた。しかしなぜ秘密なのか…。からし種は大きく成長する(31-32節)。

神の愛の働きというものは、どんなに小さなきっかけであっても、受け止められさえすれば、とてつもない力を発揮する。このように受け止めた時、今度は私たちの人生の問題や経験が「たとえ」として働いて、神の国の秘密・神の愛の働きがハッと分かるようになる。                                                  野本真也牧師(同志社理事長)

(使徒言行録6:14-29)「ヨハネとヘロデ」6月27日説教

ガリラヤ地方一帯を治める領主ヘロデと、彼によって殺された洗礼者ヨハネが対照的に描き出される場面である。

王として何不自由なく生き、欲しいものは何でも(兄弟の妻でさえ)手に入れる事ができたヘロデ。しかしイエスの名が知れ渡った時「わたしが首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ(16節)」と不安と恐れに包まれた。

そのヘロデの一言で命を奪われたヨハネだが、彼は神のご計画に従って真っ直ぐに歩み、民衆にイエスを指し示し、どんな権力者も恐れることなく、ただ神のみを畏れて歩み、その生涯を終えた。殺されたヨハネが生き生きと輝き、逆にヨハネを処刑したヘロデが恐怖におののいている。そればかりか、ヘロデは自らの権力(それは一見自由で何でもできるように見えるが、実はとても不自由)に縛り付けられてしまっている。

「信仰に生きる」という言葉・響きは「カタい」「不自由」という印象があるかも知れないが、実は、この世のあらゆるしがらみから解き放たれて、「生き生きと自分を生きる」事なのだ。真に自由な者として、信仰に生きる私たちでありたい。                          難波信義牧師