2010年11月18日木曜日

(マタイ6:1-4)「隠れたことを」11月14日礼拝説教

本日のバザーにあたり、聖書日課から離れて、「奉仕」について共に考えたい。示された聖書のテーマは「施し」である。旧約の時代より「施し」とは「貧しい者への憐れみ」として、神に命じられていた(申命記14:29等)。故に「施し」はイスラエルの民に課せられた当然の実践であり、貧しい人々への関心は、全ての者が持つべきものであった。

しかし時代の経過と共に「施し」が自らの名誉のための道具と化し、自己顕示欲を満足させるためだけのものになってしまった。「施し」の主体が「施す側」となり、「貧しい人々」は道具とされた…。イエスは、これこそが偽善の最たるものであると厳しく批判する。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と語られ、施す「意識」からも自由であれと言われる。「奉仕」も同様に、その行いが人々に隠されているだけでなく、自分自身にも隠されている・つまり「自分は良い行いをしている」という意識からも自由であれ、と言うのだ。

誰にも目を留められないような行為こそ、神は関心を寄せてくださる。そして思いもかけない形で、神はわたしたちにあらわれてくださる。このように、神との交わりを覚えつつ、日々の奉仕に生きる者でありたい。   難波牧師

(ヘブライ11:1-3)「見えない事実」11月7日礼拝説教

「天のみ民も、地にある者も、父・子・聖霊なる神をたたえよ。とこしえまでも。(讃美歌29番)」と歌う頌栄がある。既に召されて天に在る者も、そして今、地にある者も、共々に神を讃えよと言う。ここから示されるように、召天者は、今、神の御許にあって、神を仰ぎつつ讃えているのだ。と同時に、私たちも問われる。「地に在る私たちは、いつも神を仰いでいるだろうか」と。天に召された者が神を仰ぎ、地にいる私たちも神を仰ぐ…。

こうして神を中心に、天にある者も地にある私たちも一つにつながる。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること(1節)」だとあるが、これを丁寧に訳し直すと、「信仰とは、もともと神によって私たちに与えられたものであり、私たちには見えないことですが、そこに確実に、神を中心として支配があるということを、しっかりと覚えることです。」となる。

神の支配の中で、私たちは常に招かれている。その招きは見えないが、天を仰ぐことによって、私たちはその事実を覚えることができる。神を中心とした支配の中に、私たちは置かれている。天にある者も地にある者も、神を中心にしてつながっているのだ。ここに慰めと希望を持って歩みたい。  難波牧師

(ヨハネ1:1-18)「言葉は行いとなる」10月31日礼拝説教

宗教改革記念日に当り、私たちの課題であるReformingの原 点を思いつつ聖書から学びたい。ヨハネ伝の冒頭は、「キリスト賛 歌」或は「ロゴス(言)賛歌」として有名な箇所である。リズミカ ルな語りを通して、言=神、言=イエス・キリスト、イエス・キリ スト=神と三段論法のように畳み掛けて強い印象を伝える。「初め に言があった」は創世記の創造物語を想起させ、被造物に先立つ 言、即ち世界に先立つ神の意志、またキリストの先在を伝える。

そ して言が語られた後にそれが働いて被造物が形作られたことは、神 の被造物への思いを新たに気づかせ、応答すべき人間のあり方を問 うている。言に宿る命と光との表現は、私たちが神の意志と働きか けに応え、神の光を照らし返すこと、この世に於ける証し者として 生きるように動き出すことを促す。「言は肉となって、私たちの間 に宿られた」はキリストの受肉を語る。キリストは人間の形として 私たちにより分かりやすく語られる神の言としてこられ、独り子と して、そのお姿、言葉、生き方を以って、神の意思を伝えられた。

キリストを受け入れたものは少数であり、そのことがイエス・キリ ストの生涯の苦難をもたらしたが、救われて神の家族として受け入 れられたキリスト者の責任をも鮮明にする。神の一方的な恵みで あったキリストに寄り添われながら、私たち信仰者も言葉を行いへ と示さなければ。 棟方信彦牧師