2009年1月8日木曜日

「新しく歩み直す」(マタイ3:1-12)2009年1月4日説教

 洗礼者ヨハネはイエスの道を整える先駆者であった。彼の第一声は「悔い改めよ」であった。荒れ野で生活し、信仰が鍛えられたヨハネの舌鋒は鋭かった。大勢の民衆が来て、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。この時、ファリサイ派やサドカイ派の人々も洗礼を受けに来たが、ヨハネは痛烈な言葉で、「蝮(まむし)の子らよ、・・・悔い改めにふさわしい実を結べ」と告げた。悔い改めが伴わない信仰を批判したのである。
洗礼はユダヤ教で行われていた。ユダヤ教への改宗儀式では、割礼、洗礼、犠牲が行われた。その洗礼には外的な清めの意味合いしかなかった。私たちが受けた洗礼の場合には、悔い改めを求めたヨハネの洗礼を継承している。
ヨハネはイエスについて、「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と言う。ヨハネがこれほどまで自己卑下するイエスの名によって、私たちは洗礼を受けている。2009年、「悔い改めにふさわしい実」が結ぶように新しく歩み直したい。 山下慶親牧師

2009年1月5日月曜日

「わたしは遣わす」(マタイ10:16-23)12月28日説教

主イエスは「わたしはあなたがたを遣わす」と言われました。それはインマヌエルの恵みを証しさせるためであります。私たちクリスチャンはインマヌエルの恵みを神から受けました。それは「神が我々と共に」という恵みです。
  主が共にいて下さるという恵みを証しするには何んといってもその恵みを体験している人でないと出来ません。しかし、それを体験している人であってもこの現実の厳しい風にさらされるとついつい心は萎縮し、自分が何者であるかを見失ってしまいます。主は「だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と教えられました。ただ弱い私たちはこのことが両立せず、どちらか一方になってしまうことがあります。主に信頼し、主に祈っていく人は蛇のように賢く、鳩のように素直にして下さいます。「あなたがイスラエルの町を回り終わらないうちに人の子は来る」。何をしても中途半端に終わらざるを得ない私たちを主は来て必ず完成して下さいます。これを希望にして証しして参りましょう。
                                             松山教会 寺田悳英牧師

「幼子による救い」(ルカ福音書1:26-38)12月21日説教

ヨセフは婚約者のマリアが身ごもったことを知って苦しむ。聖書の何箇所かに記された超自然的な誕生物語(例:イサク、サムソン、ヨハネ)に特徴的なことは、生まれてきた幼子が神からの特別な使命を担うことである。しかし、私たちは、神からの救い主が幼子の姿で来られたことをどのように考えるのだろうか。 
  宇宙物理学者カール・セーガンは、「愛に満ちた宇宙」という文章の中で、「私たちは赤ちゃんを優しく抱いてやることによって、誰と論争することもなく、個人的に、世界の未来に貢献することができる」と書いている。神からの救い主が、優しく抱かれることを必要とする幼子として来られたことには、重要な意味が含まれているのではないだろうか。
  マタイ福音書はイザヤの預言を引用して、幼子が「インマヌエル」(神は我々と共におられる)と呼ばれると告げている。幼子イエスは神からの救いそのものであり、私たちはその幼子を、マリアやヨセフのようにしっかりと抱きしめることが求められている。 山下慶親牧師