2010年9月2日木曜日

(マルコ12:1-12)「わたしの息子なら」8月29日説教

イエスの語られた「『ぶどう園と農夫』のたとえ」だが、この譬えは何の救いもないように思え、一体イエスは何を伝えたいのか、と疑問に思ってしまう。この状況が何を譬えているのか、そこが重要なのだ。

すなわち「ぶどう園の主人=神」「ぶどう園=イスラエル(あるいは広く全世界)」「農夫=王および宗教指導者」「遣わされた僕(しもべ)たち=預言者たち」「主人の息子=イエス」なのだ。天地創造の神は、指導者たちを信頼してこの地上を任せる。しかし指導者たちが誤った方向に進んだために、預言者たちを通して立ち返らせようとした。しかし預言者たちは迫害され殺された。

ついに神は尊い独り子イエスをこの世に遣わすが、指導者たちはこのイエスをも殺してしまう…。だからこの譬えは「当てつけ(12節)」なのだ。しかしこれは現在の私たちへの「当てつけ」でもある。全てを整え、導いてくださる神の存在を忘れ、全てが自分の努力・功績・栄誉となってしまい、神の介入を認めないばかりか、拒否する。私たちを立ち返らせるために、何度も預言者を送り、さらに「わたしの息子なら」とイエスを送ってくださった神の愛が今、私たちを導く。この事実を前に、私たちはわきまえなければならない。    難波信義牧師

」(ネヘミヤ6:1-9)「ネヘミヤの信仰」8月22日説教

バビロン帝国より劇的な解放を経験したイスラエル共同体は約束の地へ戻ってくることになります。しかし、現状は厳しいものでありました。エルサレムはバビロンによって打ち滅ぼされたままの状態で放置されていました。

彼らにとってそれは重大な問題でありました。倒されたままの城壁は国防上の大きな問題であり、またそれは彼らが再び共同体を形成させていく上でも大きな問題でありました。そのような状況の中で神様に遣わされた僕がネヘミヤであります。このネヘミヤと共に民は城壁の修復作業を始めました。しかし、その作業は決して平坦なものではありませんでした。多くの妨害と問題がありました。私たちの人生にもこのような痛みや問題があります。

しかし、ネヘミヤ記は私たちに希望のメッセージを示しています。サンバラトをはじめとする妨害者たちの妨害工作にもめげず、ネヘミヤは神に拠り頼みました。ネヘミヤは神様に力を与えてくださいと祈りました。やがて、エルサレムの城壁は完成することになったことを私たちは御言葉を通して知ることができます。神が成し遂げられた業を褒め称えつつ、私たちの人生における壊された城壁をも修復してくださるように神を待ち望みたいと思います。 崔鍾元神学生(同志社)