2010年1月6日水曜日

「この目で救いを見た」 (ルカ2:22-38)2010年1月3日説教

 ヨセフとマリアは幼子を抱いて、神殿に「初詣」している。2人が小羊ではなく鳩を献げたことは、貧しい境遇を意味している(レビ記12:6,8参照)。現在の経済不況下で、日本の多くの子どもたちが貧しさを味わっている。貧しさを知ったことによって、イエスの場合のように、優しさやいたわりの心が育まれながら、大人へと成長していってほしいと願う。  イエスの両親は神殿で高齢のシメオンとアンナに出遭っている。シメオンは幼子イエスを抱き、「この目であなた(神)の救いを見た」、これで「安らかに去る」ことができると言っている。神殿の祭司や参拝者たちは、幼子イエスにおいて神の救いが来ていることに全く気づいていなかった。シメオンとアンナは、長年の信仰生活と人生経験から、そして“霊”の導きによって、自分の目の前に救い主を見出すことができた。私たちも飼い葉桶の幼子こそが救い主であることを認識できるようでありたい。そしてアンナのように、幼子イエスのことを多くの人々に話すことができるようでありたい。 山下慶親牧師

2010年1月4日月曜日

「東方の学者たちの贈物」 (マタイ2:1-23)12月27日説教

占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」となる幼子の誕生を告げると、ヘロデは不安になった。幼子と権力者の姿は実に対照的である。幼子は安らかに眠っているが、権力者のほうは神経を尖らせているからである。支配者たちは昔も今も軍事力や権謀術数に頼るが、その支配は決して長く続かない。私たちはイエスに信頼し、「主イェスの国は永久(とわ)に栄えん」と歌えるようでありたい。
東方の学者たちは黄金、乳香、没薬という高価な贈物を幼子イエスに献げた。私たちはクリスマスにプレゼントを贈り合うが、イエスに献げる贈物も忘れないようにしたい。イエスは律法で最も大事な掟は、心と精神と思いを尽くして神を愛することだと言われたことがある(マタイ22:37)。心、精神、思い、この3つを私たちが献げる贈物としたい。  学者たちは幼子に会った後、「別の道を通って」国に帰って行った。私たちも、新しい年には天使や星に導かれながら、これまでと違った「別の道を通って」前進して行くことが大事かもしれない。   山下慶親牧師

「救い主の誕生」 (ルカ福音書2:1-20)12月20日クリスマス礼拝説教

 ルカ福音書2章の降誕物語は、ローマ皇帝の支配があったことを告げている。3章ではイエスが「およそ30歳」になっているが、支配者たちの顔ぶれは変わっても、民衆の暮らしを圧迫する支配構造に変化はなかったことが分かる。
  降誕物語は神からの救い主が馬小屋で誕生したと書いている。作者は意図もなく、こんな書き方をしているのではない。なぜならば当時、ローマ皇帝を「救い主」「神の子」「主なる神」と呼ぶ皇帝崇拝が強制されていたのであり、ルカは皇帝と正反対の姿で来られた救い主の誕生を描いているからである。幼子が飼い葉桶で眠っている光景は、神がこの世を支配する暗闇を照らす新しい光を投じられたことを象徴的に示している。
  これまでの歴史にはさまざまな暗い時代があった。そのような時代に、クリスマスの訪れは人々に生きる希望と勇気を与えて来た。2009年末の現在、多くの日本人が時代の暗さを感じ取っている。暗闇の中で輝いている光のあることが多くの人に見出されることを願う。  山下慶親牧師

「天使の言葉を信じる」(ルカ福音書1:5-20)12月13日説教

天使が祭司ザカリアに現れて、ヨハネの誕生を予告した。ザカリアと妻エリサベトは高齢であった。天使はマリアにも現れて、幼子イエスの誕生を告知した。
  天使が登場するのは降誕物語だけではない。福音書の他の箇所や旧約聖書でも登場し、讃美歌でも歌われている。新約聖書を読むと、天使について正反対の立場があったことが分かる。サドカイ派は「復活も天使も霊も」ないと主張した(使徒言行録23:8)。コロサイ教会には、天使礼拝にふけってキリストから離れる人々がいた(コロサイ2:18)。私たちの場合には、天使についてどのように考えるのか。
  大事なことは、天使が“存在”するかしないかではなく、天使が告げたとされる“言葉”であり、神からの知らせである。天使はマリアに「神にできないことは何一つない」と告げた。エリサベトとマリアに幼子を授けた神は、暗闇に光を生じさせ、絶望を希望に変え、人間が「一人も滅びない」ために救い主イエスを遣わされた。天使の言葉を信じて、クリスマスを感謝と賛美で迎えたい。山下慶親牧師

「幼い日から親しんできたこと」(Ⅱテモテ1:1-10;3:14-17)12月6日説教

 パウロが第1回宣教旅行でリストラに行った時、テモテの祖母ロイスと母エウニケがキリスト者となった。当時、テモテはまだ子どもであった。パウロが第2回宣教旅行で再びリストラを訪れた時、テモテは祖母と母から立派に信仰を受け継いでいた。この姿を見たパウロは、テモテを宣教旅行の協力者として選んだ。パウロの宣教は、決して単独で行われたのではなく、テモテのような協力者によって支えられたのである。
  パウロはテモテに大きな信頼を置いていた。なぜなら、信仰を捨てて離れ去る同労者たちがいた中で、テモテは献身的な協力者であり続けたからである。伝承によれば、パウロの殉教後およそ30年間、テモテは迫害下のアジア州で諸教会を指導し、殉教の死を遂げたのであった。テモテは祖母や母を通して「幼い日から」聖書に親しみ、信仰が育まれていた。クリスマスには、子どもたちや孫たちと聖書を読み、共に礼拝し祝う最善の機会である。信仰が次世代に継承されていくことを心から願う。 
山下慶親牧師

「苦難を負う救い主」(使徒言行録8:26-40)11月29日説教

ちょうど100年前のクリスマス・イブ、若き神学生・賀川豊彦は僅かの荷物を大八車に載せ、神戸新川のスラムに向かった。極貧の人々の中で生活するためである。賀川は労働運動、農民運動、協同組合運動、平和運動の先駆者として、戦前戦後の世界で最も名前を知られる日本人となる。大衆伝道者、ベストセラー作家、ノーベル賞候補者でもあった。しかし彼は何にもまして、人々の苦難を負おうとする愛の実践者であった。
  使徒言行録8章には、フィリポとエチオピアの高官の出会いが記されている。エルサレムから帰途についた高官は、馬車の中でイザヤ書の「苦難の僕」の箇所を朗読していた。そこに、霊に導かれたフィリポが追いついく。彼は「苦難の僕」が救い主イエスであることを説明する。高官は説明に納得して洗礼を受けた。
  初代教会以来、十字架の苦難を負われたイエスこそがキリスト者にとって救い主である。この信仰に立って、今年のクリスマスを厳粛な思いで迎え、賀川の献身百周年であることも憶えていたい。
山下慶親牧師

探し求めさえすれば」(使徒言行録17:16-34)11月15日説教

 アテネからコリントに着いた時、パウロは「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安で」あった(Ⅰコリント2:3)。アテネでは何があったのだろうか。
  パウロはアテネで哲学者たちと議論を交わしたが、全く理解されず、評議所で尋問を受けた。彼は神による天地創造から説き起こし、イエスと復活について語った。説得力を持たせようと、ギリシア文学からも引用し(17:28)、本当の神は「探し求めさえすれば・・・見いだすことができる」と訴えた。しかし人々は嘲笑し耳を傾けなかった。この反応がパウロを落ち込ませたのである。
  今日の日本はこのアテネと似ていないだろうか。どんな議論もできるし、教会への敵意や迫害はない。そして福音の宣教が多くの人によって耳を傾けられることもないからである。結果として、日本の教会は「長期低落傾向」にある。
  しかし、私たちはコリントに移って、新たな気持ちで宣教を続けたパウロにならいたい。「何とかして何人かでも救うため」に(Ⅰコリント9:23)。山下慶親牧師

「天の故郷を思う」(ヘブライ11:1-3; 7-16)11月8日説教

ヘブライ人への手紙11章では「信仰によって」生きた人々が列挙されている。
  ノアは神の指示に従い、巨大な箱舟を建造した。大洪水が訪れた時、ノアと家族、すべての種の雌雄は、箱舟に乗り込んで救われた。彼は「まだ見ていない事柄」に備えていたが、彼の行為は周囲の人々の目には愚かなことであった。
  草葉町教会の会堂は、床が海の色で3階構造、ステンドグラスでは鳩がオリーブの葉をくわえている。まさにノアの箱舟である。永眠者となっている20年前の教会員たちは、現代における救いの箱舟のため資金と労力を惜しまなかった。
  アブラハムも目に見えないものに目を注ぎ、「信仰によって」「行き先も知らずに出発した」。教会の永眠者たちも「信仰によって」戦中戦後を生き抜き、人生の試練や病気に立ち向かわれた。永眠者記念日にあたって、私たちもノアやアブラハムのように「天の故郷」を思いながら、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」しつつ「信仰によって」生きていくようでありたい。山下慶親牧師

「苦難をも誇りとする」(マタイ7:13-14; ローマ5:1-5)11月11日説教

  マルティン・ルターは免罪符を発行していたカトリック教会に抗議して、宗教改革を起こしていった。免罪符は罪の赦しを金で買うことであり、「滅びに通じる広い門」であった。ルターは身の危険を覚悟で教皇を批判した。それはまさに「狭い門」から入ることであった。
  ルターに因んだ名前を持つキング牧師も、困難の多い「狭い門」から入る生き方をした。差別の少ない北部に残るのではなく、人種差別が渦巻く南部の教会に赴任することを選んだからである。
  私たちはルターやキング牧師ほど偉大ではないが、予期しなかった事態が生じて「狭い門」の前に立たされることがある。星野富弘さんの場合には、体育館の事故で重度の障害を負った。彼の前途に「狭い門」いや「閉ざされた門」が立ちはだかったのである。しかし、彼は試練に立ち向かい、打ち勝っていった。  イエスは十字架上での死という「狭い門」に向かって行かれた。私たちの前には、さまざまな「狭い門」がある。しっかりとした生き方を貫きたいと思う。   山下慶親牧師

「アダムのあばら骨」(創世記2:19-25; Ⅰコリント11:2-16)10月25日説教

「アダムのあばら骨」  山下慶親牧師
  (創世記2:19-25; Ⅰコリント11:2-16)
  コリントの教会には多くの問題があり、女性たちも問題の原因となっていた。パウロは事態改善のため手紙を書き送っている。しかし、手紙には、現代の私たちを戸惑わせる表現が見られる。
  パウロは11章で、女性は礼拝の場で頭にかぶり物をすべきだと述べている。彼は、神―キリスト―男―女という序列を本来の秩序と考えており、エバがアダムのあばら骨から造り出されたことを根拠としている。パウロは2千年昔のユダヤ人であり、当時の男性優位の考え方に影響されていたことは否定できない。
  しかし、パウロには、イエス・キリストにおける新しい人間観も抱くようになっていた。「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません」という文章がそのことを示している(11:11)。
  私たちの考え方は、日本の今の時代と社会から影響や制約を受けている面がある。しかし、イエス・キリストにおける新しい生き方や考え方が少しでも身についていくようでありたい。
山下慶親牧師

「身内の人に知らせなさい」(マルコによる福音書5:1-20)10月18日説教

「身内の人に知らせなさい」山下慶親牧師
    (マルコによる福音書5:1-20)
  イエスと弟子たちの一行がゲラサ人の地方に着いた時、「悪霊に取りつかれた」男が墓場から現れた。男はイエスから名前を尋ねられ、「レギオン」と答える。レギオンとは6千人編成のローマ軍団である。それだけ多くの悪霊に取りつかれていると思うほど、大きな精神的苦しみを負っていたのである。彼はイエスによって悪霊が追い出されて正気になる。
  この物語はイエスによる癒しの物語の1つである。この男の場合、イエスと「一緒に行きたい」と願い出る。しかしイエスはそれを認めず、家に帰って、自分に生じたことを「身内の人に」知らせるように言われた。その後、男は身内の範囲を超えて広くデカポリス地方に、自分の身に生じたことを伝えた。ここに伝道の原点がある。すなわちイエスによって自分の身に生じたことを語ることである。私たちには、自分しか語ることのできないイエスとの出会いがある。伝道は牧師だけがすることではない。イエスによって悪霊を追い出してもらった男の姿に学び、伝道の働きを担うようでありたい。山下慶親牧師

「落穂を残す」(ルツ2:14-18; ルカ12:13-21)10月11日説教

ルツ記は、ルツとしゅうとめナオミの物語である。2人の寡婦は夫の出身地ユダのベツレヘムで新しい生活を始める。ルツは大麦を収穫中の畑に出て、落穂を拾わせてもらう。律法には、穀物やオリーブやぶどうの収穫を取り尽くさないで、寄留者、孤児、寡婦のために残しておきなさいという戒めがあったからである。
  今年は日本におけるプロテスタント伝道150年である。日本を含めてアジア・アフリカの教会は、19世紀から20世紀にかけて、欧米の教会の世界宣教によって大きな支援を受けてきた。宣教師たちの働きの背後には、遠い外国の人々を助けたいという気持ちを持った無数の信徒たちがいたこと(現在もいること)を忘れてはならない。世界宣教は、必ずしも裕福ではない生活の中にあって、「落穂を残す」心を持った多くの人々によって支えられてきているからである。
  イエスは「愚かな金持ちのたとえ」を語られた。私たちは、すべての収穫を自分だけのものだと考えた金持ちの姿には見習わないようでありたいと思う。 山下慶親牧師

「命の息を吹き入れられて」(創世記2:4-25; エフェソ2:1-10)10月4日説教

創世記の二つ目の創造物語では、神が陶芸家のようにアダムを、外科医のようにエバを造り上げている。一見幼稚なこの創造物語には、三つの鋭い洞察がある。
第一は人間が土の塵から造られていて、やがては土に返ることである。人間も動物も変わりはない。第二は「命の息を吹き入れられて生きる者となった」ことである。多忙で「息切れ」しがちな私たちは、「安息日」の礼拝で「息継ぎ」をし「息を吹き返す」ことが必要である。第三は人間が罪を犯すことである。アダムとエバは禁じられた木の実を食べただけでなく、アダムはエバに、エバは蛇に罪の責任を転嫁した。園の木の間に顔を隠した2人は息苦しかったことであろう。罪は人間を窒息させるからである。
  パウロは、エフェソの人々が「以前は過ちと罪のために死んでいた」が、今ではキリストによって生かされていると言う。私たちは「神の作品」(口語訳)として、命の息を呼吸しながら、土の塵に戻る日が来るまで、「善い業を行って」信仰者の生涯を全うしていきたい。  山下慶親牧師

「命にまさるもの」 (詩編63:1-6; ヨハネ14:1-7)9月27日説教

長寿は人間の理想である。しかし、旧約聖書は長寿=幸福という考え方ではない。なぜならば、人生で「得るところは労苦と災い」(詩編90)に過ぎず、二千年の長寿を得ても、「幸福でなかったら、何になろう」(コヘレト6)とも述べているからである。
詩編63は神の「慈しみは命にもまさる恵み…命のある限り、あなたをたたえ(ます)」と歌う。この詩には「ダビデが荒れ野にいた時」という前書きが付されている。長寿であれば、それだけ多く人生の荒れ野を経験することになるが、同じ信仰的表明ができるようでありたい。
  イエスの生涯は幸福な長寿の対極であった。家庭生活で子や孫に恵まれたわけでなく、平安に命を全うされたのでもなく、非業の死を遂げられたからである。イエスは「わたしは命である」と言われた。その命は長寿とは質的に異なる「永遠の命」であり、私たちその命にあずかっている。長寿であれ、短命であれ、「命にもまさる」慈しみのもと、キリスト者としての生涯を全うしていきたい。 山下慶親牧師

「イエスから祈りを学ぶ」(マタイ6:5-15)9月20日説教

先週の説教では、礼拝や祈りが子どもの時からの習慣として身に着くことの大切さについて話をした。しかし、どんな習慣にも、「慣れっこ」になる問題が伴う。
  私たちが最も「慣れっこ」になっているのは「主の祈り」である。マタイ6章とルカ11章には、イエスが弟子たちに祈り方を教えたことが記されている。マタイ福音書では「偽善者の(祈りの)ようであってはならない」と教え、「人の過ちを赦す」ことが勧められている。ルカ福音書では、祈りを教えた後、熱心に祈り求めることの大切さが教えられている。
  私たちは、ルカの記事からは熱心に祈り求める習慣が身に着くようになること、マタイの記事からは祈りが「慣れっこ」のマンネリに陥らないよう信仰の初心を忘れないでいることの大切さを学びたい。そして、習慣化した「主の祈り」を唱える時には、自分たちに負い目のある人々に関して、「赦しまし“た”」(マタイ6:12)、「“皆”赦します」(ルカ11:4)と心から言えるようでありたい。    山下慶親牧師

「同じようにしなさい」 (ルカ10:25-37)9月6日説教

8月末、2人のキリスト者の顔が思い浮かぶ。1人は先日死去した韓国の金大中元大統領である。彼は北朝鮮に太陽政策をとり、日本の大衆文化に門戸を開放した。もう1人はキング牧師である。彼は「私には夢がある」の演説で、黒人と白人が真に兄弟姉妹となることを訴えた。2人のノーベル平和賞受賞者の共通点は、敵対関係があった中で、良き隣人関係を創出しようと努力したことである。
  本日は衆議院の選挙日である。最近の議論では、日本の軍備増強や核武装を唱える声が聞こえる。核大国のオバマ大統領が核廃絶を呼びかけ始めた一方で、唯一の被爆国がこんな状態では情けないし、将来が心配でなる。私たちは世界中が隣人同士になることを夢見たい。  イエスは、ユダヤ人とサマリア人の対立関係があった中で、律法の専門家に「善いサマリア人」のたとえを語られた。私たちは隣人の範囲に関して、律法の専門家のような狭さではなく、イエスのような広さを持っていたい。そして「隣人となる」努力をしていくようでありたい。   山下慶親牧師