2015年2月26日木曜日

2月22日の 日曜礼拝説 教 要 旨

 「 誘 惑 」 (ルカ4:1-13)

 難波信義牧師

受難節の歩み出しにあたり、イエスが 「誘惑を受ける」という場面が示された。 第一の誘惑は「石をパンに変える」と いう誘惑である。この一見「何が悪いの か?」と思う程の小さな事への誘いにこ そ罠がある。それは、「人は神の言葉によ って生きる(申8:3)」という真理から人 間を引き離すという罠である。むしろ 「困難の中でこそ神の言葉を求めよう」と 隣人に語る人として、遣わされている。 第二の誘惑は「国々の権力と繁栄を与 えよう」という誘惑である。個人的な権 力欲ならば誘惑とも言えるが、神の国の 実現ための勢力拡大ならば、問題はない ように思う。しかしここにも、知らず知 らずのうちに経済力や支配力というもの にひれ伏してしまう・悪魔を拝んでしま う誘惑がある。「ただ神のみを拝む」とい う基本を決して忘れてはならない。 第三の誘惑も、天使の守りと導きに信 頼するという事で、そこに何の問題があ るのか、むしろそれを人々が見て神を信 じるようになるのではないかとさえ思う のだが「、従順(御心を問う事)無き信頼」 は、勝手な思い込みによる信仰であり、 それは神を試みることなのである。 先立って受難の道を進み行かれる主の 招きに応えつつ、日々、何が誘惑である のかを見極めて、歩んで行きたい。
2月15日の 日曜礼拝説 教 要 旨

 「弟子たちに渡して」 (ルカ9:10-17)

難波信義牧師

 「五千人に食べ物を与える」という非 常に有名な場面である。全ての福音書が この出来事を記録しているが、それはこ の奇蹟がすごかったからではなく、弟子 たちにとって忘れられない出来事だった からである。弟子たちは、自分の本分を 確認させられ、それによってこそ神の恵 みが豊に現れる事を体験した。すなわち、 自分たちはただ、キリストから受けて運 ぶだけの存在であり、そこにこそキリス トの豊かさが満ちあふれる、という事を 体験した出来事だった。 9章冒頭で、弟子たちはイエスによっ て、何一つ持たずに、派遣され、「至ると ころで福音を告げ知らせ、病気をいやし た。(6節)」その彼らが今「帰って来て、 自分たちの行ったことをみなイエスに告 げた。(10節)」弟子たちは派遣の主の力 を忘れ、自分の業績として、その働きの 全てをイエスに報告したのである。 そこでイエスは、タイミングを見計ら って「、あなたがたが彼らに食べ物を与え なさい(13節)」と言われた。「自力で何 でも出来ると思っているのなら、この現 実の問題も、あなたがたが解決しなさい」 と厳しく語りながらも「、自分の持ってい るもので人々を助けたのではない「」恵み の神が、あなたたちを通して働かれたの だ」という大切な事を伝えたのである。
2月8日の 日曜礼拝説 教 要 旨

 「キリストの名によって」 (使徒3:1-10)

 難波信義牧師

ペトロが足の不自由な男をいやした場 面。この足の不自由な男は、当時の社会 で二重の苦しみを受けていた。それは、 他人からの施しを乞わなければ生きて行 けないという苦しみであり、それ以上に、 因果応報の信仰により(参照:ヨハネ9 章)、様々な病や不幸が全て「罪のゆえの 神の罰」だとされ、人々から見放され、 彼自身も、そのように信じ、生きていた という事である。彼が「置かれていた」 のは神の恵みを豊かに示す「美しい門」 であったが、悲しいことに、人々も・彼 自身も、神の恵みとは無関係な「生」が そこにあった。 その彼に、ペトロを通して「イエス・ キリストの名」が与えられた。そして彼 の人生は根本的に変えられた「。神の恵み は自分とは無縁だ」と思っていた彼が、 神を賛美しながら礼拝の場へと向かった のである。全く新しい「生」へと導かれ たのである。 この場面を通して、教会への明確な使 命が示される。彼が全く変えられたよう に、神を誉め讃え、神に期待し、神と共 に、また信じる人々と共に、前に向かっ て歩み出す…、そのような「イエス・キ リストの名」を人々に指し示すことであ る。そのためにもまず、私たち自身がし っかりと「イエス・キリストの名」を受 け取って歩みたい。
2月1日 の日曜礼拝 説 教 要 旨

「忍耐して実を結ぶ」 (ルカ8:4-15)

難波信義牧師

 イエスが語られた「『種を蒔く人』のた とえ」である。ここでは4種類の土地に ついて言われているが、あくまでも「一 つの畑」について語られたものである。 畑の中には場所によって、踏み固められ た「道端」があり、完全に石が取り除か れていない「石地」があり、当時の農法 により深く耕さないために、深い所に根 をはる「茨」が残る所があり、「良い土地」 もある。また、育成条件が整わなければ 種は育たないが、整えば「百倍の実を結 ぶ」と言う。 これは「譬え話」なので、ここに自ら の身を置いて理解しなければならない。 特に、この譬えの説明は11〜15節にあ るとおりである。 特に「百倍の実を結ぶ」と言うが、当 時の農法では「10倍あれば豊作」であ り、百倍というのは実に極端な話しであ る。しかしこれこそが、イエスの語られ た「神の業」を示す。御言葉が種として 蒔かれると、私たちの内には御業が・神 の愛が現れる。私たちの人生を通して、 神ご自身が働かれる。御言葉の種は、こ のような可能性を、内に秘めている。 そうであるならば、私たちは「良い土 地」となるべく「御言葉を聞き、よく守 り、忍耐して実を結ぶ」者でありたい。 その意識・自覚と共に、実り(神の愛の 業)を期待して歩む者でありたい。
1月25日の 日曜礼拝説 教 要 旨

「神は真実な方です」 (Ⅰコリント1:1-9)

 難波信義牧師

 示された聖書を集約する言葉が「神は 真実な方です(9)」である。この短い言 葉に含まれる多くの恵みを受け取りたい。 「真実」とは「変わらない愛」である。 この真実の神=変わらない愛の神が、私 たちを信仰生活へと導いてくださった。 その「信仰生活」とは「主イエス・キリ ストとの交わり(9)」である。 私たちは既に、キリストとの交わりに 招き入れられているのであるから、ただ 神を信頼すれば良いのである。なぜなら 「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆ る言葉、あらゆる知識において、すべて の点で豊かにされて(5)」いるからであ る。特に「あらゆる言葉」とあるが、こ れは教会の中で言えば「神を語る言葉」 と「神に語る言葉」であり、つまり「伝 道」と「祈り」である。 ここにキリスト者が求める本当の豊か さがある。どのような状況にあっても、 神を語り証する事が出来、神に親しく語 りかけることが出来るのは、本当の恵み であり豊かさである。 しかし何度も言うが、私たちはそのよ うな豊かさへと、既に招き入れられてい るのである。真実の神が、イエス・キリ ストとの交わりという信仰生活へと、招 き入れてくださっているからである。こ こに信頼して、歩み行きたい。
1月18日の 日曜礼拝説 教 要 旨

「しかし、お言葉ですから」 (ルカ5:1-11)

難波信義牧師

全くの不漁で途方に暮れながら網の手 入れをしているシモン・ペトロのもとに、 イエスと、イエスを求める群衆が押し寄 せてきた。その上、イエスがペトロの舟 に乗り込んだために、この騒ぎを無視で きない状況に追い込まれてしまう。イエ スは群衆と距離を置いて(舟と岸)、教え はじめるが、最も近くで聞くペトロには 「群衆への語りかけ」でしかなかった。 しかし突如「自分へ語りかけ」として のイエスの言葉が響く。「網を降ろし、漁 をしなさい」と。従順が問われる言葉で ある。そしてペトロは、思わず口をつい て出た不満(5節前半)と共に、「お言葉 ですから(5節後半)」と、主の言葉に従 った。その結果、大漁が待っていた。 どんなに葛藤があり、理解出来なくと も、主の言葉に従った者だけが体験でき る事がある。ペトロにとって、それは生 ける神との出会いであった。そのため彼 はひるんで「わたしは罪深い者です」と 告白するが、イエスはなお、「恐れること はない」と語り、ペトロに新しい使命を 与える。「今から後、あなたは人間をとる 漁師になる」と…。主によって捕らえら れた者が、主と共に捕らえる者にされた のである。 主の言葉を「私への語りかけ」として 受け入れ、従う所から、全てが始まる。
1月11日の日曜礼拝説教要 旨

「聖霊と火で」 (ルカ3:15-22)

難波信義牧師

洗礼者ヨハネが現れて、人々に「悔い 改めの洗礼を宣べ伝えた(3節)」場面。 確信に満ち、力強く語るヨハネに、人々 は「彼こそ、来るべきメシアではないか」 と期待した。 しかしヨハネはそのような期待を否定 して言う。「わたしよりも優れた方が来ら れる」「その方は、聖霊と火であなたたち に洗礼をお授けになる」と。ここにはヨ ハネなりのメシア観が込められている。 すなわち脱穀場で麦と殻を分けるように、 聖霊(聖なる風)で、救われる者とそう でない者とを分け、殻が火で焼かれるよ うに裁きを行う、そのようなメシアの姿 である。さらに「隅々まで」という言葉 に示されるように、それはユダヤ人であ ってもローマ人であっても、全ての者が 神の前に問われるというのである。 しかし実際に来られたメシア(救い主) イエスは、そのイメージとは異なる。聖 霊は「裁きの風」としてではなく、神の 言葉をともなって、静かに鳩のように降 った(22節)。さらにイエスは罪人と同 じ列に並ばれ、同じ水の中に沈んだ。 それは、厳しい裁きの現実を覚えるこ とと同時に、「私たちと共にいてくださる 救い主」ということを豊かに示す出来事 であり「、主にある平安」を覚えることな のである。 【 集 会