2012年12月19日水曜日
「何を見るのか」(マタイ11:2-19) 12月16日説教要旨
牢に捕らえられていた洗礼者ヨハネが、弟子たちをイエスに遣わし尋ねる。「来るべき方は、あなたでしょうか(3節)」と。ヨハネはイエスとの最初の出会いで、イエスこそが「来るべき方」、メシアだと知っていたはず(3章)なのに、ここにきて上記のように問うのだ。ここに、ヨハネの失望が込められている。それはイエスの低さや弱さである。メシアとしての期待は、国の王としての期待だった。
しかしイエスは、あらゆる低さ・弱さと共に歩まれた(5節)。ここから今を生きる私たち自身が、イエスの何を見、何を期待しているのかが鋭く問われる。
またここでイエスは、ヨハネを「預言者以上の者(9節)」「エリヤである(14節)」と宣言された。聴衆の誰もが知るエリヤだが、彼が現れると、続けてメシア(=救い主)が現れると信じられていた。
つまりイエスは、ヨハネをエリヤだと宣言することによって、暗にご自身を救い主だと宣言したのである。私たち自身が、イエスの何を見、何を期待しているのかが鋭く問われ、それと共に「イエスはキリストである」という明確な答えが示される。「イエスは私の救い主」との告白と共に、イエスの誕生を見つめる時、私たちに計り知れない神の恵みが与えられている事に気付かされる。
難波信義牧師
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