2014年8月20日水曜日

8月17日礼拝 の 説 教 要 旨

「命にあずかる」

(マルコ9:42-50) 難波信義牧師

「罪への誘惑」との表題が付けられた
箇所だが、実に厳しい、あるいは脅しの
ようなイエスの言葉が詰まっている。
しかしイエスが語っている対象は「わ
たしを信じる…小さな者の一人(42)」
であり、それは弟子たち・後の時代の弟
子たち・そして現代の私たちである。そ
の小さな一人が、「つまずき」つまり、誘
惑や迫害によって神から離れてしまう・
信仰を失ってしまうなら、それは神にと
って大変な事なのだ。それを示すのが、
ここに記されている非常に厳しい言葉な
のである。
43節以下も「小さな一人」に語られ
た事として読まなければならず(決して
迫害者への脅しではない!)、つまずきが
自分の内にある事が語られる。そのつま
ずきによって信仰が失われないために、
「片方の手を切り捨てろ」「片方の足を切
り捨てろ」「片方の目をえぐり出せ」と言
うのだが、これらの言葉によって示され
るのは、「命にあずかる方が良い」「神の
国に入る方が良い」ということである。
「いかなるものによっても、神から引き離
されてしまうようなことがあって欲しく
ない」という神の熱い思いを、イエスは
ここで語られる。
この神の思いを受け止め、イエスの導
きに信頼して、信仰の道を歩みたい。
8月10日礼拝 の 説 教 要 旨

「信仰のないわたしを」

(マルコ9:14-29) 難波信義牧師

霊に取りつかれた息子を癒してもらう
ため、父親がイエスの弟子たちのところ
へやって来た。この時、たまたまイエス
は不在であり、弟子たちが悪霊からの解
放を行おうとしたが出来なかった。その
ために、そこに居合わせた律法学者たち
と議論になり、父と息子を放ったらかし
に、議論は白熱していた。
そこへイエスが戻って来て、その一連
の事を含めて「なんと信仰のない時代な
のか(19)」と嘆かれた。弟子たちは信
仰の欠如によって悪霊の追い出しが出来
なかった。律法学者たちは信仰の欠如に
よってイエスの弟子たちを責める事しか
できなかった。さらにこの父親も、「おで
きになるなら…助けてください(22)」
と言い、イエスから「『できれば』と言う
か(23)」と信仰の欠如を問われる。
父親は慌てて「信じます。信仰のない
わたしをお助けください(24)」と叫ん
だ。「わたしを」とあるように、助けても
らわなくてはならないのは、息子である
以前に、信じる事が困難な自分自身なの
である。この父親の「気付き」は、弟子
たちにこそ必要であった。だからイエス
は「祈りによらなければ(29)」と教え
られたのだ。私たちも自らの無力さを自
覚し、そのままを神にゆだね、御業を求
めて歩む者でありたい。