2010年1月19日火曜日

「ペトロでさえ」 (マタイ16:13-27)1月17日説教

イエスの弟子たちは私たちと変わらない人々であった。福音書ではペトロが頻繁に登場する。彼は完全無欠ではなく、しばしば軽率さ、臆病さ、無理解を露呈させる。私たちは「ペトロでさえ」イエスの弟子であったことを思う。
 ある時、イエスは人々の噂を聞かれた後、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられた。ペトロは率先して「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」と答えた。この信仰告白の後、ペトロは「天の国の鍵」を授けられる。しかし直後のエピソードで、ペトロは厳しい叱責を受ける。自分の願望に沿うメシアを期待していて、イエスの受難の道を妨げようとしたからである。イエスは弟子たちに「自分の十字架を背負って、わたしの後に従いなさい」と言われた。弟子たちは、従い直すことが求められたのである。「私たちでさえ」弟子となることができる。そのためにはイエスをキリストと告白するだけでなく、「自分の十字架を背負って」従うことが求められる。  山下慶親牧師

「群衆から弟子に」 (ルカ14:25-35; ヨハネ13:34-35)1月10日説教

本日(1月10日)は故福田令寿先生の誕生日である。先生は18歳で受洗し、百歳で召された。長い信仰生活を通して草葉町教会を支え、熊本バンドの直弟子としての生涯を残された。少しでも彼に見習うことができるようでありたい。
  イエスはついて来る大勢の群衆に、「(…でなければ)わたしの弟子ではありえない」と3回も言われた(26,27,33節)。イエスの弟子であるためには「弟子の条件」を満たすことが求められる。
  イエスは群衆の求めに応じてさまざまな病気の癒しを行われた。苦しみや悲しみや悩みに共感される方だからである。私たちには、かなえてほしいたくさんの願いがある。しかし信仰で大事なことは、願いをかなえてもらうことだけではない。イエスからの問いかけを受けていることに応えることも大事である。私たちは「群衆」の一人にとどまるのではなく、神、イエス、教会のために、自分は何ができるのかを考えながら、「弟子」の一人になることを目指したい。 山下慶親牧師