2011年1月20日木曜日

(ルカ5:1-11)「お言葉ですから」1月16日礼拝説教

「網を降ろし漁をせよ」とのイエスの言葉に、漁師シモンは、夜通し漁をしたのに不漁に終わった現実を訴える。しかし同時に「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と投げやりに応える。これを実行した事によって奇跡が起こる。

思えば、イエスの命令は、その先を約束する言葉である。「漁をせよ」=「大漁」、つまり「命令」=「約束の言葉」なのだ。この事実に気付いたシモンは自らの罪(「的外れ」の意)を自覚させられた。漁師のプロとしての自分の経験・勘の良さのみに頼って、イエスの言葉に信頼していなかった・神に信頼していなかった、その事に気づいたのだ。さらにシモンはイエスに対して「主よ」と呼びかける。この呼びかけは、信頼をもって・人生をかけて、初めて呼ぶ事のできる言葉だ。ここに、この奇跡の目的がある。単に「イエスは素晴らしい方だ」と思う事ではなく、そこに「信頼」があるかどうかという事なのだ。

人生をかけるほどに信頼できるかどうかによって、私達の「信じる」という信仰は左右される。自らの人生をかけるほどの信頼をもつ事ができれば、その先にある約束の成就・恵みの成就を心から信じ、その信仰を保ちながら、苦難を乗り越えて行く事ができるのだ。 難波信義牧師

(ルカ3:21-22)「イエスの受洗」1月9日礼拝説教

イエスが洗礼を受けられた場面。何故イエスは「罪の赦しを得させる為の悔い改めの洗礼(3節)」を受けたのか。「罪なき神の子、ヨルダンの川にて、われらの罪とが、共に担いたもう。(讃美歌277)」との讃美歌が示す通り、罪の赦しと悔い改めを必要とする全ての人間と共に歩むために、洗礼を受けたのだ。さらにこの時、神が「わたしの心に適う者」と語られた。

イエスの、罪人と共に歩まれる・低きに降る神の子としての姿を御心に適うことだと宣言されたのだ。この場面を通して、私たちの洗礼についても示される。人間と共に歩もうと洗礼を受けるイエスは私たちを招く。「私の後に続け」と。このイエスの招きに応えるのが、私たちの洗礼なのだ。さらに、「後に続く」・「共に歩む」だけでなく、私たちは洗礼を通してキリストと一つに結び合わされる。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち(ローマ6章3節)」とある通り。神が、私たちを「子」として受け入れてくださる、その契約が、私たちの洗礼なのだ。

既に洗礼を受けている方はこの自覚を新たにしつつ歩みたい。また、まだ洗礼を受けていない方は、この洗礼の意義を覚え、イエスの招きに応えるべく、良き備えの日々を、この年、始めよう。  難波信義牧師

(ルカ2:21-35)「あなたの救いを」1月2日説教

幼子イエスが「神殿で捧げられる」という場面。特に神殿奉献はもちろん、命名(21節)も含めて、救い主としてお生まれになったイエスは、ことごとく「律法」に従っている。すなわち、神の御子イエスは、旧約聖書の時代に定められた律法の「外」に生まれたのではなく、律法の「もと」に生まれたのだと言う事が強調されている。

イエス・キリストは律法の成就であり、神の御心そのものなのだ。またその幼子イエスを、そのままで、世の救い主として見抜いた人物がいた。それがシメオンである。彼は幼子イエスを抱き「あなたの救いを見た」と主に感謝する。彼の確信はどこから来るのか。

それは、聖書の御言葉を生き生きと信じる信仰に生きたと言う事であり、また聖霊による確信を得て、神の導きに従って行動したからだ(25-27節)。この事によってシメオンは、心おきなく信仰の生涯を全う出来たと・心安らかに去ることができると、確信できた。新しい一年、信仰が日曜日だけの信仰にとどまることなく、現実の中に誕生されたイエスを、その現実の中で受け入れつつ、聖書に聞き、神の導きを確信し、その導きに従って生きる者でありたい。 難波信義牧師