2014年6月4日水曜日

先 週6月1日 の 説 教 要 旨

「絶大な神の力」
(エフェソ1:15-19) 難波信義牧師

「パウロの祈り」との表題が付けられ
た場面。パウロは「あなたがたが主イエ
スを信じ、すべての聖なる者たちを愛し
ていることを聞き…絶えず感謝していま
す(15-16節)」と祈る。パウロはエフェ
ソに3年間滞在していた事もあり、愛と
信頼によって結びついている関係があっ
たのだと、この祈りから感じられる。
パウロはさらに、エフェソの人々への
信仰の成長を祈る。「神を深く知ることが
できるようにし、心の目を開いてくださ
るように(17-18節)」と。私たちもそう
だが、日々新たにされるために、常に礼
拝を通して、また聖書に接しながら、心
の目・信仰の目を開いていただかなくて
はならない。
ここから、さらなる希望へと導かれる。
「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほ
ど豊かな栄光に輝いているか…、絶大な
働きをなさる神の力が、どれほど大きな
ものであるか、悟らせてくださるように
(18-19節)」と。ここにパウロの、神に
対する絶対的な信頼を感じ取ることが出
来る。この言葉には、私たちに既に備え
られている希望を大胆に告げている。同
時に、主の十字架によって実現した贖い
という、絶大な神の力に信頼して歩むよ
うにと、一人一人を導いている。
先 週 5月25日の 説 教 要 旨

「悲しみが喜びに」

(ヨハネ16:16-24) 難波信義牧師

「あなたがたは悲しむが、その悲しみ
は喜びに変わる(20)」とイエスは語ら
れる。特に「しばらくすると、あなたが
たはもうわたしを見なくなるが、またし
ばらくすると、わたしを見るようになる
(16)」とも言われ、これらはつまり、主
の十字架による死と、復活の出来事を示
している。それは確かに、弟子たちにと
って辛く悲しい出来事であった。しかし
イエスは復活された。さらにその十字架
が示すのは、全ての罪から贖い出す救い
のしるしである。このようにイエスの十
字架の悲しみは、そのまま、救いの喜び
へと変えられた「。あなたがたは悲しむが、
その悲しみは喜びに変わる」とのイエス
の言葉の意義はここにある。
私たちが地上の生涯で味わう悲しみも
同じである。確かに、悲しみのただ中に
いる時は、他の何も見えないほどに、そ
の悲しみに囚われる。しかし復活の主イ
エスと出会うなら、それらが全て「しば
らく」の間のことであることを知るので
ある。さらにここでイエスが「産みの苦
しみ」を通して語るように、確かに生き
る上での悲しみや苦しみはあるけれども、
それらは次につながって行く悲しみ・苦
しみなのである。それらをふまえて「あ
なたがたは悲しむが、その悲しみは喜び
に変わる」と言われるのである。ここに
希望をおいて歩む私たちでありたい。
先 週 5月18日の 説 教 要 旨

「主につながる」

(ヨハネ15:1-11) 難波信義牧師

「わたしはまことのぶどうの木(1)」
と始まる非常に有名な御言葉だが、ここ
だけに留まってしまうと、イエスが伝え
ようとしている本当の意味を聞くことは
出来ない。イエスが「まことの」と言わ
れたという事は、「まことならざる」ぶど
うの木もあるという事だ。それは選民思
想に安住し、神への感謝を忘れている人
々である。そのような「実を結ばない枝
はみな、父が取り除かれる(2)」。
だからこそイエスは「わたしにつなが
っていなさい(4)」と言われる。ぶどう
の枝は幹と根から吸い上げられる栄養分
によって成長し、生きる。それが途絶え
る時、枝は枯れる。このように私たち一
人一人は、自らの力で立ち、育ち、生き
るのではなく、幹なるイエスによって、
また整える農夫なる神によって整えられ、
生かされているのである。
真につながるべき対象を軽んじ、人間
の軽率な思いをもって目に見えるものに
固執し、依存しようとする…。しかし真
に依存すべきは主であり、そこから教会
生活・信仰生活を守って行くのが、私た
ちの本来の在り方なのである。
「私につながっていなさい」と繰り返
しイエスは宣言し、一人一人を愛と信頼
に満ちた言葉によって、いつも引き戻そ
うとしておられる。その愛に、真に応え
る者でありたい。