2011年6月1日水曜日

(ルカ7:1-10)「ただ、お言葉をください」5月29日礼拝

この場面でイエスは、百人隊長の態度に対し「これほどの信仰を見たことがない(9節)」と語られた。このように言わしめたその信仰とは何か。聖書の舞台であるパレスチナ一帯は当時、ローマの支配下に置かれていた。そしてこの場面の舞台カファルナウムにはローマの駐留軍がいた。百人隊長とは、このローマ軍人であり、ユダヤ人から見て異邦人である。支配者は時に、権威をかざして横暴に振る舞うが、この百人隊
長は、ユダヤ長老の証言(5節)にあるように、ユダヤ教の会堂を建てている。現代風に言えば、この百人隊長は求道者として、ユダヤ教に仕えていたのだろう。そして神を知り、求めていたからこそ、彼にはイエスの力を認める事が出来た。だからイエスに求めたのだ。しかも当時の宗教的観点をしっかりとわきまえ、「イ
エス様をお迎えしてけがれさせるわけには行かない」と、「ただ、お言葉をください(7節・口語訳)」とだけ求めた。彼はイエスの言葉の力を認め、信じた。だからイエスからその信仰を褒められた。「御言葉の権威」を無条件に認め、その言葉による力を信じ、絶対的に信頼を寄せる百人隊長の姿に、私たちも学びつつ、日々「御言葉をください」と求めつつ歩む者でありたい。難波信義牧師

(ヨハネ15:12-17)「互いに愛し合う」5月22日礼拝説教

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ(16節)」とある。思わずユダヤ教時代の「選民思想」を思い浮かべるが、イエスの言う「選び」とは「愛の招き」なのである。それは私たちが「恋愛」などで思い浮かべるように、イエスは、他に人がいないかのように「私」を選び・愛してくださる、と言うことだ。

だから16節を言い換えるならば、「あなたがたがわたしを愛したのではない。わたしがあなたがたを愛した」となる。「私と主」だけの関係ならば、このような理解でも良いが、ここにははっきり
と「あなたがた」とある。神の愛・イエスの愛は、「私」に限定されるのではなく、隣人一人一人にも豊かに注がれているのだ。私たちが恋愛において相手をいとおしく大切に思うように、イエスは「私」を、それ以上の思いを持って見つめてくださる。しかしそうやって「私」を見つめながらも、同時に、全ての一人一人に
豊かな愛を注がれるのだ。

私たちは皆、この愛によって生かされている。だから愛する者へと変えられ、互いに愛し合うことが出来る。しかもその愛は、無理に搾り出すような愛ではなく、主からいただく愛である。この愛を持って、互いに愛し合う者でありたい。 難波信義牧師

(エフェソ2:11-22)「和平を守っていきましょう」5月15日特別礼拝

エフェソの教会には、地域住民キリスト者とユダヤ人キリスト者との間に隔ての壁があった。ユダヤ人は相変わらず選民思想に包まれ、異邦人たちを軽視していた。しかしイエス・キリストが来られ、このような「律法を廃棄され(15節)」、私たちの中に平和をくださった。

日本と韓国が近くなり大邱南門教会と草葉町教会が兄弟姉妹になったのも「隔ての壁を取り壊し(14節)」た主イエスの恩恵があった事を信じている。初めて話すが、私の父は1945年、本人の同意無しに強制徴集によって日本の軍人にされた。日本本土で騎馬兵の訓練を受け、満州での戦闘に加わる直前に終戦になり、苦労の末に、本国に帰還した。このように過去、私たちは「傷つけた者」と「傷つけられた者」との痛みがあった。

しかしもう私たちは過去にとらわれず、未来を見ながら共に兄弟姉妹にならなければならない。なぜなら、主イエス・キリストが私たちに、そのような心を持たせてくださり、そのような心を私たちにくださったからだ。「キリストはわたしたちの平和であります。(14節)」このキリストが作られた平和を守っていきましょう。そして主の栄光を讃えましょう。黄日丙元(大邱南門教会)牧師

(ルカ24:36-43)「私たちの真ん中に」5月8日礼拝説教

ついに復活の主が、弟子たちに現れる場面。特にこの時、弟子たちはイエスを前にしてなお「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った(37)」。見ても信じない頑なな心に包まれた弟子たちに、イエスは、その目の前で魚を食べつつ、体を持った存在(完全な復活)としてご自身を示される。

ところで弟子たちは、復活の主を前に「恐れおののいた」。その彼らにイエスは言う。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか(38)」。「心に疑いを…」と言う事については、弟子たちが復活の主を信じられず、「亡霊を見ているのだと思った(37)」からだ。それ程の驚くべき出来事であった。
しかし弟子たちの中には、イエスが言うように「うろたえる」者もいた。これはどういう事か。思えば弟子たちは、十字架の主を前に、一目散に逃げ去った。イエスを捨てたのだ。だからイエスに顔向けできない。だから「うろたえ」「恐れおののいた」のだ。

この弟子たちに、イエスは「平和があるように」と告げる。信じない事を・逃げ出した事をとやかく言うのではない。「あなたと共にいる」事を示されるのだ。今を生きる私たちにも、弱さはそのままに「共にいる」事が示される。難波信義牧師

(ルカ24:1-12)「生きておられる方」5月1日礼拝説教

イエスの遺体はアリマタヤのヨセフによって墓に葬られた。そして婦人たちもそれを見届けた(23:50以下)。「葬る」のだから、それは「完全な死」を意味する。イエスは、人間が共通して受け入れざるを得ない「死」の現実を経験された。婦人たちもこの時、イエスの「死」を受け入れ「丁重に送りたい」という、遺
体に対する極めて常識的な行動を取ろうとする。イエスは何度も死と復活を予告したはずだが、弟子たちも婦人たちも、その約束を忘れ、悲嘆に暮れ、戸惑い、恐れるだけであった。
の婦人たちに「空虚な墓」と「御使い」が示される。「空虚な墓」だけならば、婦人たちはさらに混乱したことだろう。この時の婦人たちは常識的判断によって行動していたのだから、遺体がなくなれば「誰かが運んだのだ」と考える。だから「御使い」が登場する。「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」「あの方
は復活なさった」と。イエスは深い配慮の中で、死に勝利したことを、丁寧に、常に先回りして伝えられる。婦人たちが混乱しないように、御使いを墓に残して…。このように、いつも先回りしてくださるイエス・キリストがいると言うことが、私たちの希望なのだ。難波信義牧師

(ルカ22:39-46)「御心のままに」4月24日説教

棕櫚の主日・受難週の始まりに、イエスのゲツセマネの祈りの場面が示された。「父よ…この杯をわたしから取りのけてください。しかし…御心のままに…」(42節)とのイエスの孤独な祈り・十字架を目前にした祈りがある。さらにここには「イエスは苦しみもだえ…、汗が血の滴るように地面に落ちた。(44節)」ともある。

それはまるで、イエスが死に恐怖しているかのようだ。「イエスともあろうお方が…」と困惑してしま
う。なぜイエスは怖れ、苦しむのか。それは、神の前に罪の裁きを免れ得ない「人間の死」をイエスは引き受けられるからだ。神の凄まじい裁きを知るイエスは、この死によって神に見捨てられることの本当の恐ろしさを、ただ一人知っておられた方なのだ。

だからイエスが恐れる死とは、人間の手によってもたらされる死ではなく、神の裁きなのである。イエスはいつでも逃げ出すことができたにも関わらず、父なる神への従順によっ
て、常にみ心に従われた。一緒に連れてきた弟子たちは眠りこけ、さらに父なる神からも見放されようとしている。そしてイエスは死を目の前にして、苦しみ悶え、苦闘する。この苦悩と孤独な死こそが、私たちのためだった。難波信義牧師

(ルカ22:39-46)「御心のままに」4月17日礼拝説教

棕櫚の主日・受難週の始まりに、イエスのゲツセマネの祈りの場面が示された。「父よ…この杯をわたしから取りのけてください。しかし…御心のままに…」(42節)とのイエスの孤独な祈り・十字架を目前にした祈りがある。さらにここには「イエスは苦しみもだえ…、汗が血の滴るように地面に落ちた。(44節)」ともある。それはまるで、イエスが死に恐怖しているかのようだ。「イエスともあろうお方が…」と困惑してしまう。

なぜイエスは怖れ、苦しむのか。それは、神の前に罪の裁きを免れ得ない「人間の死」をイエスは引き受けられるからだ。神の凄まじい裁きを知るイエスは、この死によって神に見捨てられることの本当の恐ろしさを、ただ一人知っておられた方なのだ。だからイエスが恐れる死とは、人間の手によってもたらされる死ではなく、神の裁きなのである。
イエスはいつでも逃げ出すことができたにも関わらず、父なる神への従順によっ
て、常にみ心に従われた。一緒に連れてきた弟子たちは眠りこけ、さらに父なる神からも見放されようとし
ている。そしてイエスは死を目の前にして、苦しみ悶え、苦闘する。この苦悩と孤独な死こそが、私たちのためだった。難波信義牧師

(ルカ20:9-19)「隅の親石」4月10日礼拝説教

イエスの語った「ぶどう園と農夫」の譬え。この単純明快な「悪い農夫たち」の物語に、民衆は「そんなことがあってはならない」と、その不条理を理解し、訴える。それに対してここでイエスは詩編(118:22)の言葉を引用し、この不条理な物語に、イエスご自身の受難の現実を映し出している事を示す。「捨てた石」とはイエスご自身であり、この物語の「愛する息子(13節)」と同様に、捨てられ殺されてしまう。
しかし、このイエスを土台とする人生を築き上げる者にとっては「隅の親石」となってくださる。感謝して歩もう。難波信義牧師

(一コリント12:12-26)「つながりに生きる」4月3日礼拝説教

年度の初めにあたり、年度目標である「つながりに生きる」について共に考えたい。特に関係聖句は一コリント10:17(週報表紙参照)だが、理解を深めるために、同12:12以下の聖書から聞く。この手紙を記したパウロは「一致」「一つ」と言う事を強調する。それは、コリントの教会は(現代の私たちも)良くも悪くも多様性の中にあり、そのために分裂が起こっていたからだ。この現実の中で、パウロは「一つの体」の譬えを用いて「一致」の重要性を訴える。

体にはそれぞれの機能があり、それぞれが大切だが、体としては一つであるように、私たちも、多様な中にあり、それぞれが大切な存在であるけれども、違いは違いとしてそのままに、キリストにあって一つなのだ、と。私たちはしばしば「一致」を強調するあまり、隣人に、同じ考え・感覚を求めて(強制して)しまう。しかし体に様々な機能があるように、私たちはそれぞれの在り方があり、これを抹殺するような「一致」ではなく、これを前提とした「一致」こそが大切であると教えられる。

互いの違いを認め合いつつ、「すべての部分が共に苦しみ」「すべての部分が共に喜ぶ」(26節)というつながり」を覚えて、2011年度を歩みたい。難波信義牧師

(ルカ11:14-26)「神の国は来ている」3月20日礼拝説教

イエスが悪霊追放の業をされた時に起こった論争の場面。一見すると「悪霊」という私たちには分かりにくい、何か別世界の話しとして受け取り、出来事そのものを真剣に捉えにくい。しかしここで注目すべきは、「悪霊を追い出してもらった人」と「イエス」との関係である。この背景には、病気は不幸は皆、悪霊の仕業であり、さらに、そうなるのは、その人が何か罪を犯したからで、その罰として、そのように状態になる、という考えがある。結果、病気や不幸で苦しむ人々は、その苦しみに加えて「罪人」のレッテルを貼られ、二重苦を受けていた。

この現実の中で、イエスによる悪霊追放・癒しが成された。それは単なる病気の回復・身体機能の回復と言う事ではなく、人間の尊厳の回復であり、神との関係の回復なのだ。これこそ、この場面で注目しなければならない事なのである。

現代においても「悪霊」は様々な形で現れていると言える。巧みに働き、隣人を裁いてしまうこともあるし、聖書の時代と同じように、宗教的権威で隣人を排除・攻撃することもある。イエスはまさに、この受難を歩まれた。
私にも隣人にもある「人間の尊厳」「神のとの関係」をこそ第一として歩みたい。
難波信義牧師

(ルカ4:1-13)「何によって生きるのか」3月13日礼拝説教

9日の「灰の水曜日」より受難節に入った。最初の聖日に、イエスが誘惑を受けられた場面が示された。
「40日間の断食」そのものが、想像を絶するものであるが、そこで第一の誘惑である「パンの誘惑」が起こる。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ(3節)」と…。それに対してイエスは「人はパンだけで生きるものではない」と、この誘惑を退けられた。

当然の事ながら、イエスはここで「パンの問題(食の問題)」を軽んじている訳ではではない。ここでイエスが引用(申命記8章)したのは、神の導きによってエジプト脱出を果たし、荒れ野の40年も神によって守られ養われた、イスラエルの民に対して語られた言葉であり、これによって「神の養いの中に生かされている」と言う事を示す。

すなわち「食」だけでなく私たちの「生」そのもの・その根底を神が支えてくださる、と言う事だ。私たちは自分の力でパン(食料)を得ていると考え、神無しに生きて行けると錯覚する。この誘惑にある私たちに、イエスは示す。「人はパンだけでいきるものではない。人生の根底を支え導く神によって、生かされているのだ」と。この神に信頼し、そして全ての誘惑に打ち勝つ主に従って、歩む者でありたい。難波信義牧師