2014年6月25日水曜日

6月22日 の 説 教 要 旨

「神に向かって声をあげ」
(使徒4:13-31) 難波信義牧師

聖霊降臨の出来事(2章)によって力
強く宣教を開始した弟子たちだったが、
その最初から困難があったことを、示さ
れた場面は伝える。すなわちペトロとヨ
ハネによる宣教に対する、ユダヤ教指導
者たちからの脅迫である。釈放された二
人は、すぐに仲間のもとに行き、出来事
を共有する(23節)。現実を認め、共に
この現実に向き合うことができたのは、
神への信頼があったから・祈ることを知
っていたからである(24節)。このよう
に「祈り」とは神へと目を転じることか
ら始まる。目の前の問題の大きさにでは
なく、その背後におられる神の大きさに
目を向けるのである。この絶対的信頼の
中で、彼らは神に叫び求める。「彼らの脅
しに目を留め(29節)」と。彼らは脅迫
されている現状を、そのまま神に訴えた。
さらに、神ご自身が手を伸ばしてくだ
さることを祈り求めた(30節)。実際に
手を伸ばすのは彼らだが、その手に、御
手を添えてくださいと祈るのである。私
たち祈り求めることも、このことである。
神が、この私を通して、現実に手を伸ば
してくだい、という祈りである。
この祈りに「聖霊の満たし」によって
応えてくださった
6月15日 の 説 教 要 旨

「神の子とする霊」
(ローマ8:12-17) 難波信義牧師

「あなたがたは、人を奴隷として再び
恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする
霊を受けたのです。この霊によってわた
したちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです
(15節)」とパウロは言う。
ここにある「神の子」とは「神の養子」
という意味であり、パウロがこのように
わざわざて記しているのは、特別な恵み
を強調しているからである。すなわち、
神の子ではあり得ない私たち・神を「父
よ」と呼ぶことなどできない私たちなの
に、特別な恵みによって子として受け入
れていただいた・「養子」にしていただ
いて、神の家族の中に受け入れられた、
ということである。
また「人を奴隷として再び恐れに陥れ
る」とあるように「、子」と「奴隷」を対
比させながら、「神の命令を守らないと、
罰を与えられる、呪われる、災いに遭う」
と、ビクビクしながら神に従う必要もな
いと言う。なぜなら「神の子とする霊を
受けた」からだ。すなわち私たちは霊に
従って生きる・養子とされた者として、
神の子として・「アッバ、父よ」と神を
呼びながら、生きるのである。
「子供であれば、相続人でもあります」
「キリストと共同の相続人」だとも言う
(17節)。ここに希望を持って、生き生き
と、自分らしく生きたい。
6月8日 の 説 教 要 旨

「『霊』は望むままに」
(一コリント12:1-13)難波信義牧師

聖霊降臨日(ペンテコステ)を迎えた
私たちだが、改めて「聖霊」の恵み、そ
の働きに注目したい。
「聖霊によらなければ、だれも『イエ
スは主である』とは言えない(3節)」と
あるように、私たちの信仰は聖霊に導か
れたものである「。自分でキリスト教を選
んだ・教会に出席している・洗礼を受け
た」のではなく、全て聖霊が直接、ある
いは周囲に働きかけてくださり、そのよ
うな思いへと導いてくださったのである。
さらに聖霊は、私たちを様々な働き・
愛の業へと導いている。私を信仰に導く
ために、聖霊が隣人を導いて、私に遣わ
してくださったように、私も、隣人のた
めに、聖霊によって遣わされている。聖
霊の働きの自覚は、このように新たな決
断へと私たちを導く。また、「賜物を与え
るのは霊」「務めを与えるのは主」「働き
を与えるのは神」とあるように(4-6節)、
三位一体の神が、私たちを時に適った働
きへと導き出すにあたり、必要な知恵と
力を与えてくださるのだ。欠け多き私た
ちが、賜物を持ち寄り、お互いに組み合
わされ(7,12節)、神と人と教会に仕え
ていく時、神はその全能の力をもって支
え、御業を現してくださる。ここに信頼
して歩もう