2010年10月9日土曜日

(マルコ14:53-65)「真理の実行」10月3日説教

イエスが裁判を受けるという場面。イエスは黙し続けるが、「お前はメシアなのか」との問いに「そうだ」と答えた。メシアとは本来、神の権威を持ち合わせた救い主のことだが、この時代のユダヤ人たちは、メシアをこの世の(政治的)権力者として期待していた。だから目の前で、弱く、見捨てられたようなイエスの姿はメシアから程遠く、そのイエスが「そうだ(メシアだ)」と言うならば、こんな冒涜はないと判断した。そしてこの裁判の目的である死刑判決が成された。もしイエスがここでも黙り続けていたら死刑判決は無かった。

しかしイエスは、この決定的瞬間に大胆に語る。神の前で正しいこととして、イエスは自分の命よりも「真理の実行」を選んだ。「真理の実行」には苦難が伴う。これを考える時、キング牧師のことを思う。彼はある説教の中で、「38歳の時に、正義のために立ち上がるように召し出されて、色々な恐れからそれを断り、90歳まで生きたとしても、38歳で死んだのと同じだ。神が共にいてくださるのだから、どんな苦しみがあっても、正義のために立ち上がれ。」と語った(参考「キング自伝」p.402-403)。厳しい説教だが、イエスはもっと厳しい現実を、私たちのために歩まれた。ここに立ち返り、私たちも「真理の実行」を成す者でありたい。         難波信義牧師

(マルコ14:43-52)「御心が実現するため」9月26日説教

イエスが逮捕されるという場面。ユダはイエスが特別に選び出した「12弟子」の一人だ。そのユダが「接吻」という敬愛の挨拶によってイエスを売る。「ある者(47節)」は、大祭司の手下に斬りかかったが、彼はイエスへの忠誠のためではなく、恐怖の中でその不安を振り払うように、この行動に出た。「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆」は「剣や棒を持って」来た。

イエスに対する憎しみだけで行動する彼らは、自分たちが正しいことをしているという確信を持てない。その曖昧さの中でイエスに恐怖し「強盗にでも向かうよう」な態度でのぞむ。そして「弟子たち」は皆、逃げ出した。登場する人間たちは皆、神の御心を求めず・歩まず、自分の思いで行動し、自分の支配を求めた。しかし、それはただ「自らの弱さ」を見せつけられるだけの結果となった。

弱さの中で不安や恐怖に包まれ、罪を犯す…。その中で、イエスはただ神の御心を歩み、それ故に恐れなど微塵もなく、落ち着き、まっすぐに十字架へと歩まれる。しかも、ここに登場する一人一人の罪・迷いや恐怖も一緒に担って十字架へと歩まれるのだ。「それが御心だ」と語りながら…。       難波信義牧師

(マルコ14:12-26)「主の晩餐」9月19日説教

イエス殺害計画が着々と進む中、イエスは弟子たちと「過越の食事」をされる。世に言う「最後の晩餐」の場面である。そもそも「過越の食事」や「除酵祭」は、エジプト脱出の出来事(出エジプト記12章)を思い起こし、神の救いによって奴隷状態から解放したことを記念する祭りである。

神から与えられた自由・その神への服従を再確認し、さらにその証しとして同胞(隣人)への愛を決意する時・すなわち、虐げられた者たちが、虐げる者にならないための祭りなのだ。まさにその時に、イエス抹殺の陰謀が進行する。何と皮肉なことか…。しかしイエスは言われる。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(24節)」と。「過越」の出来事に象徴される「身代わりの小羊」だが、今、イエスご自身が「小羊」として十字架へと向かわれる、その事が示される。

イエスの十字架・イエスの献身(文字通り「身を献げる」)によって初めて、私たち人間は救われ、解放されるのだ。「わたしの体(22節)」「わたしの血(24節)」としての主の晩餐(すなわち聖餐式)である事を再確認しつつ、この契約によって救われ、導かれ、生かされる「私」である自覚をもって、感謝して歩む私たちでありたい。      難波信義牧師

(マルコ14:1-11)「できるかぎりのこと」9月12日説教

非常に高価な香油を、惜しまず全てイエスに注ぎかけた女性が登場する。周囲の人々は「もったいない」と彼女の行為をとがめ、不快感を示すが、イエスは彼女の行為を受け止める。「わたしに良いことをしてくれた(6節)」、「この人はできるかぎりのことをしてくれた(8節)」と。さらにイエスはここで「時を見分ける」事の大切さをも示された(7-9節)。特に前後の場面では、イエス殺害計画と(1-2節)、ユダの裏切りが記され(10-11節)、十字架の出来事へと急展開する。

この二つの場面の間に「香油注ぎ」の出来事がある。そこにおいてイエスは、彼女の行為を「埋葬の準備をしてくれた(8節)」と言われるのだ。死者への埋葬には香油を塗るからだ。しかし彼女は、そこまで考えてイエスに香油を注いだ訳ではない。もちろん高価な香油を注いだ行為は、中途半端なものではなく、イエスへの信仰と愛の現れだろう。このようなストレートな行為が自然と「神の時に適う」行為になっていた。私たちのまっすぐな思い・その行為に、神が「結果」を備えてくださるのだ。私の人生を支配し、時に適って導いてくださる神に信頼して「今」を誠実に生きる・「できるかぎりのことをした」と精一杯生きる私たちでありたい。  難波信義牧師 

(マルコ12:41-44)「ささげもの」9月5日説教

神殿の境内で、人々が献金する姿をご覧になるイエス…。イエスは何を考えながらご覧になっていたのか…。そんな時、一人のやもめがレプトン銅貨2枚をささげた。その行為をイエスは「アーメン」と言われた(「はっきり言っておく(43節)」を直訳すると「アーメン、あなたがたに、わたしは言う」となる)。

「貧し(42節)」さの中で「生活費を全部入れた(44節)」彼女の行為に「アーメン(その通り)」と言われるのだ。そもそもイエスは何を考えながら、人々が献金する姿をご覧になっていたのか。イエスの言葉にそれが表れている。大勢の金持ちはたくさんささげていた。しかしそれは「有り余る中から(44節)」の献金であり、さらに言えば、大勢の群衆が注目する中での「見栄」のための献金だった(38-40節の場面に続いて、この場面がある事から、それが示される)。

イエスは「金持ち」と「貧しいやもめ」対比を通して、私たちに決して忘れてはならない「心」を教える。すなわち、ただささげる・ただ歩む・ただ生きるのではなく、私達の生活の一つ一つの場面に、神の豊かな恵みと導きを一つ一つ確認し、その一つ一つに感謝しつつ、ささげる・歩む・生きる、私たちでありたい。                  難波信義牧師