2011年8月17日水曜日

(ルカ9:51-56)「イエスの戒め」8月14日礼拝説教

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。(51節)」と始まるこの場面は、19章27節まで続く「イエスがエルサレムを目指して進まれる旅」となっている。
テーマは「旅」だが、それは地上の旅路を歩む私たちの人生とも重なる。

固めるほどの決意をもったイエスの旅路であったが、その決意をくじくような出来事が起こる。サマリア人に拒否されたのだ。ユダヤ人とサマリア人は複雑な歴史経過の中で犬猿の仲となっていた。
ユダヤ人にとっての中心であるエルサレムを目指すイエス一行であったため、サマリア人から拒否されたのだった。

ヤコブとヨハネは怒りにまかせて「滅び」を宣告しようとするが、イエスはそれを戒められた。イエスは弟子たちの乱暴な復讐心を戒めただけではなく、苦難の待つエルサレムへ向かうイエスの決意を理解せず、滅ぼすことによって事を解決しようとする、その思いを叱ったのだ。
ここにイエスの旅のテーマが示される。「滅ぼすためではなく、救うためにイエスはこの世に来られた」と言う事である。

今を生きる私たちは、様々なことに心が騒ぎ、悩まされ、あるいは怒る。しかし、滅びではなく救いを求めるイエスが共にいてくださる恵みを覚え、イエスの戒めをしっかりと聞きつつ歩みたい。
                               難波信義牧師

(フィリピ4:2-9)「主はすぐ近くに」8月7日礼拝説教

パウロがヨーロッパの地に渡って最初に伝道した土地、それがフィリピであり、この手紙を通して、その親しい交わりが感じられる。しかもパウロがこれを書いた時、彼は既に投獄されていて、死の危険さえあった。その中でも彼は、信仰の喜びや教会の交わりの大切さを、この手紙の中に盛り込んでいる。
特に示された箇所は、フィリピの教会が今まさに分裂の危機にあり、それを引き起こしていたエボディアとシンティケという女性指導者が名指しされている。

パウロは彼女たちを名指しすることで、彼女たちを共同体から追い出そうとしているのではない。彼はこの4章に至るまでで繰り返し「心を合わせる」「思いを一つに」と記してきた。わざわざ名指ししたのは、フィリピの教会の一人一人が、この問題から目をそらさず、一丸となって乗り越えなさい、という励ましなのだ。

しかも単なる励ましではなく、その言葉の前提として「主において」等の言葉に示されるように、信仰的なクッションをおいて、冷静に判断しなさいと言うのだ。全ての事柄や問題を「主を中心にする」「主と共にある」事を覚えながら、全体で共有し、判断しなさいと言うのだ。
「主において」という信仰的クッションを自覚しつつ、教会のこと・社会のことを見つめ、平和をつくって行きたい。      難波信義牧師

(ルカ7:36-50)「赦されること・愛すること」7月31日礼拝説教

一人の女性がイエスに近づき、イエスの足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻し、香油を塗った…。「わたしは神の愛によって赦されている」との信仰がこの行動を起こした。しかしこの行動の一部始終を、ファリサイ派のシモンは冷ややかな目で見ていた。宗教的権威で、また社会的権威で、この女性を「罪深い」
と定めていた、その背景から、この行動を素直に受け取れないのだ。

それを見抜いたイエスが、シモンに一つの譬えを話し、「罪を自覚し、神の赦しの恵みに感謝することは、赦しの大きさに比例して大きくなる」事を教えた。すなわち「愛に溢れた行為は、神の赦しと直結している」という事だ。

社会から「罪深い女」と決めつけられた一人の女性…。しかしその背後には、女性をそのように追いやる社会的環境があり、生きるために犯さざるを得ない宗教的規定がある。それなのにその背景を敢えて無視して「罪深い女」と決めつける宗教的権威がある。
その矛盾をイエスは指摘しつつ、この女性を、そのしがらみから解き放った。そしてこれが、この場面での彼女の行動へとつながったのだ。

神の愛を「当然」とするのではなく、「愛に溢れた行為は、神の赦しと直結している」という事を深く刻み、悔い改めて、神を愛する歩みを成したい。 難波信義牧師

(使徒20:7-12)「大いに慰められて」7月24日礼拝説教

パウロが3回目の宣教旅行で滞在したトロアスでの出来事。ここで7日間滞在したパウロは、翌日に移動を控え、別れを惜しみつつ、熱心に語り続け、それが「夜中まで続いた(7節)」のだ。
深夜の外は静寂と暗闇…。しかし部屋の中は語り手と聞き手の情熱に包まれつつ、ともし火が輝く感動的な状況…。それはそのまま、暗黒の世界に福音の炎を携え行こうとするパウロの情熱である。
しかしここで一つの事件が起こる。その場に居合わせた青年エウティコが、眠気のあまり3階の窓から転落し、息絶えてしまったのだ。

人々が慌てふためく中、パウロは毅然と「騒ぐな。まだ生きている(10節)」と語る。この「まだ生きている」と訳された言葉は、「彼の魂は彼の中にある」という言葉である。事実彼は、パウロの腕の中で息を吹き返した。

この場面を通して、この奇蹟に注目してしまうが、ここで重要なのは、パウロの情熱である。そもそも、それまでに3年も滞在したエフェソで騒動に巻き込まれたパウロだったが「まだ生きている」との言葉から示されるように、絶望の中でも希望を失わずに伝道に励んだ。

息絶えたような状況を、命あるものへと変えるパウロの伝道が示される。息絶えた青年が生き返ったように、私たちも「大いに慰められて」希望に歩みたい。  難波信義牧師

(使徒8:26-38)「フィリポの説教」7月10日礼拝説教

使徒の一人フィリポが、エチオピアの高官に洗礼を授ける場面。背後にあって豊かに導かれる神を思う。
12弟子の一人であるフィリポは、第一に霊の導きに従い、自分の思いよりも神の導きに従った。第二に聖書をよく学んでいたが故に、エチオピアの高官にイエス・キリストの福音を述べ伝えることが出来た。

エチオピアの高官は、第一に非常に熱心であった。故郷で位置も名誉もあった彼だったが、自国の神ではなく、異教の神・聖書の神を熱心に求めた。しかし、いくら熱心に求めても、そこに書かれている事の意味は分からなかった。するとそこにフィリポが現れ、福音を伝えたのである。しかもこのフィリポの言葉にも、異国の高官である彼は熱心に聞き入っている。第二に彼は謙遜であったと言える。
そしてこの二人を導き、つなげたのが聖霊の働きである。わずかでも時間がずれていたら、この二人は出会わなかった。

エチオピアの高官が朗読していた聖書がイザヤ書53章だったからこそ、フィリポは的確にイエスを述べ伝えることが出来た。そしてちょうど良いところに水があったから洗礼式が行われた。見えなくとも、不思議に、そしてベストタイミングで導かれる聖霊にゆだねて歩みたい。難波信義牧師

(エフェソ4:1-16)「利己実現を超えて」7月3日礼拝説教

昨今は「自己実現」という言葉がやたらと聞かれます。しかし、マズローの提唱した本来的な意味から外れた、単に自分のなりたい自分になることが人生のゴールであるかのような「自己実現」には、「利己実現」と
でも言うべき、非常に個人主義的な自己の願望の充足に陥る危険性があります。
エフェソの信徒の手紙によれば、キリスト・イエスにあるものは、ただ一つなる神を見上げて、互いに結ばれて一つの体を作り上げて行くため召されているのです。

ここで語られている私たち人間の生き方は、「自分の思いを実現する」というものではなく、「神の国実現」とでもいう生き方、「神様の思いがこの世界に実現されるよう、そのために働き生きる」ことなのです。
そして、私たちには「キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられて」います。それぞれに与えられた恵みを十全に生き抜くこと、それこそが私たち使命であり喜びなのです。
                   関谷直人(同志社神学部)教授

(使徒言行録2:37-47)「一つにされて」6月26日礼拝説教

聖霊降臨直後のペトロの説教を受けて、それを聞いた人々の反応が描かれる場面。ここから2つのことを考えたい。
まず「教会の構成メンバーについて」である。それは「心を打たれ」た(37節)者たちである。しかも「ペトロの言葉を受け入れ…3千人ほどが仲間に加わった(41節)」とあるように、イエスの復活の証言を聞いて「心を打たれ」た者たちの集まり、それが教会の構成メンバーと言えるだろう。

もう一つは「教会とは何をするところか」である。それは「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(42節)」との言葉に集約されている。単なる社交的な「おつきあい」ではなく、「神の家族」としての交わりであり、「私」のため・「あなた」のため・「教会」のため・「社会」のために熱心に(本当に熱心に)祈る…、これが「教会の姿」なのである。

この前提に立つ時「民衆全体から好意を寄せられた(47節)」と言う言葉がメッセージとして響いてくる。現代の私たちは「どうやって伝道を?」と思い、考えてしまうが、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた(同)」のだ。この神の導きに信頼しつつ、私たちも、関係性を大切にしながら歩みたい。
                   難波信義牧師

(使徒言行録2:22-36)「ペトロの説教」6月19日礼拝説教

聖霊降臨の出来事を目の当たりにした人々は、弟子たちが各々の言葉によって福音を語っている事に対して、驚きのあまり、「酒に酔っているのだ(13節)」と断言した。そこで弟子の一人ペトロが立ち上がって説教を始めた。示された聖書は、その場面の一部である。ここでは特に、イエスについて語った、3つのペトロの言葉が印象的である。

まずイエスを「ナザレの人(22節)」だと言う。これはイエスが幽霊のような非現実の存在ではなく「ナザレに実在した方だ」と言う主張が込められている。次に「神はイエスを通して…奇蹟と、不思議な業と、しるしとによって…あなたがたに証明した(同)」と言う。イエスは人間に、肉体をもった神であることを示されたのである。

さらに「お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で(23節)」とあように、イエスの十字架そのものが、神のご計画・出来事だったと言う事だ。
このようなイエスに対する信仰的理解を持って歩むように、今日の聖書は示す。イエスは決して架空の人物ではなく、また理想だけを私たちに教えたわけでもない。神のご計画の中で死と復活を経験され、今、聖霊を豊かに注いでくださっている。何よりも一人一人を「復活の証人」として立てられる。自覚して歩もう。
                                 難波信義牧師

(使徒言行録2:1-11)「宣教する教会の誕生日」6月12日説教礼拝

聖霊降臨日(ペンテコステ)は一般に「教会の誕生日」と呼ばれる。示された聖書にあるように、弟子たちの上に約束の聖霊が降り、力を得て宣教を開始し、これによってキリストの教会が始まったからである。

しかし今回、ふと気付かされたことがあった。それはこの聖霊降臨の出来事よりも前から教会は存在していた、と言う事だ。使徒1章には、弟子たちが一つの場所に集まって、共に祈っていた事が示されている。さらにユダの欠員によって11名となっていた「使徒」の12人目の補充を行っている。

すなわち教会の組織や制度に関わる運営が行われていたのだ。これはまさに教会の存在に他ならない。ならばペンテコステを「教会の誕生日」と呼ぶのは間違っているのだろうか。示された聖書を改めて読むと、「不思議な・奇跡的な現象」に目が向くが、ここで大切なのは、このように現象を通して・様々な言葉を通して「福音が語られた」と言う事だ。

つまり聖霊降臨によって「宣教が開始された」と言う事だ。だから、ペンテコステは「宣教する教会の誕生日」なのだ。弟子たちは、霊に満たされ、霊に強められ、時が良くても悪くても、宣教の業を担ったのである。私達も、霊に導かれるままに歩みたい。   難波信義牧師

(マタイ28:16-20)「イエスは近寄って」6月5日礼拝説教

一般に「大宣教命令」と呼ばれるこの場面だが、今回は17節の「しかし、疑う者もいた」との言葉に注目したい。
イエスが重大な使命を、まさに今、弟子たちに与えている、この厳かな場面において、全く相応しくない言葉に思える。
その上、この言葉を抜かしても場面は成立する・むしろ、よりすっきりした場面になるのに、敢えて「しかし、疑う者もいた」と記している。故に、ここに大きな意義を感じる。それは「イエスは、疑いを拭い得ない者たちを、決して排除なさらない」と言う事だ。

思えば、教会は「信じる者の群」と言うが、だからといって「信じない者」「疑う者」を排除したら、一体誰が教会に残る事が出来るか。そして「信じたい」「信じよう」「信じさせてください」という叫びを持って、「疑い」を乗り越えるのが私達の現実なのだ。この現実を踏まえるならば、「疑う者もいた」というのも、決して弟子たちが不真実な集団だったと言う事を言っているのでは無い事が分かる。

「信仰」と「疑い」のせめぎ合いの中で・この現実の真っ只中で、イエスは私たち一人一人に「大宣教命令」を語られたのだ。何よりこの現実を歩む私たち人間に「イエスは近寄って」くださる。 ここに信頼して歩む私たちでありたい。     
                                 難波信義牧師