一人の女性がイエスに近づき、イエスの足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻し、香油を塗った…。「わたしは神の愛によって赦されている」との信仰がこの行動を起こした。しかしこの行動の一部始終を、ファリサイ派のシモンは冷ややかな目で見ていた。宗教的権威で、また社会的権威で、この女性を「罪深い」
と定めていた、その背景から、この行動を素直に受け取れないのだ。
それを見抜いたイエスが、シモンに一つの譬えを話し、「罪を自覚し、神の赦しの恵みに感謝することは、赦しの大きさに比例して大きくなる」事を教えた。すなわち「愛に溢れた行為は、神の赦しと直結している」という事だ。
社会から「罪深い女」と決めつけられた一人の女性…。しかしその背後には、女性をそのように追いやる社会的環境があり、生きるために犯さざるを得ない宗教的規定がある。それなのにその背景を敢えて無視して「罪深い女」と決めつける宗教的権威がある。
その矛盾をイエスは指摘しつつ、この女性を、そのしがらみから解き放った。そしてこれが、この場面での彼女の行動へとつながったのだ。
神の愛を「当然」とするのではなく、「愛に溢れた行為は、神の赦しと直結している」という事を深く刻み、悔い改めて、神を愛する歩みを成したい。 難波信義牧師