2011年3月4日金曜日

(使徒3:1-10)「イエスの名によって」2月27日礼拝説教

使徒の一人ペトロが「足の不自由な男を癒す」場面。冒頭には足の不自由な男を取り巻く厳しい現実が描かれる。「施しを乞うため」「置かれていた」(2節)、すなわち他人の憐れみによって生きるために、荷物でも置くようにドサッと運ばれてきた、と言うのだ。彼はこの現実の中で、傷つく心を押し殺して、「魂を鈍く
して」生きていたのだ。
 
ところが、その現実が「イエスの名」を示すペトロの登場によって一変する。彼は「イエスの名」によって、自らの存在の痛み・魂の叫びを、しっかり受け止めてくださる存在を知った。それこそが「イエスの名」、つまりキリスト・イエスそのものであった。「私たちの魂の叫びを聴いてくださる神」「共に苦しんでくださる神」とし て来られたイエスの存在を知る事によって、鈍くなった魂は生き返り、命が輝く。

 私たちを取り巻く厳しい現実(戦争や基地問題、環境破壊や公害、心の病や身体的障碍、等々…)の中で、ともすれば「魂を鈍くして」生きている・生きようとする私たちの心の中心にも「イエス・キリストの名」が示される。後戻りできない一歩を踏み出してしまったにも関わらず、その鈍くなった魂に、命の水が流れるのだ。
              難波信義牧師

(ルカ8:4-15)「蒔かれた『種』とは」2月20日礼拝説教

 イエスが語られた「種を蒔く人」の譬え。イエスは、人々の理解を助けるために、生活に密着した譬えを通して「神の国」を語る。3種類の良くない土地に落ちた種は、それぞれの地に応じ、芽を出し損なう・枯れる・成長し損なう…。しかし良い土地に落ちた種は百倍の実を結ぶ…。 この譬え話を「自分には関係がない」と言えるだろうか。人は誰しも、自分の中に4種の土地を持っている。人生のある時期や段階で「道端」「石地」「茨の土地」「良い土地」であったりする。誰でも、はじめから「良い土地」である訳ではない。

自己中心的に神に求め、自分の波長に合った言葉しか受け入れようとしない事もある。私たちが「良い土地」とされるのは、ひとえに農夫なる神が、適度な雨を降らせ、石地を砕き、茨を焼き払う等、私たちを耕し直
してくださるからに他ならない。

 この前提を持ちつつ、さらに、私たちがその心を神の方へ向け変えるという、人間の側の努力も必要なのだ。この相乗効果によって初めて「百倍の実を結ぶ」ことが出来るのだ。この確信に立ちつつ、しっかりと心を神に向け、神に整えられ、実を結ぶ一人一人でありたい。
                              難波信義牧師

ルカ6:1-5)「日曜日? 安息日?」2月13日礼拝説教

「安息日に麦の穂を摘む」という場面。まさに「安息日」がキー ワードとなって、イエスとファリサイ派との主張がぶつかり合う。

「安息日」とは、神が天地を造られた時、6日の創造の後、7日目に安息されたことを覚え、人間もまたこの日を安息とし、神の恵みの御業を仰ぐことに集中する日である。(参:出エ20:8-11)ファリサイ派の人々は信仰熱心だった。しかし熱心さのあまり「律法を守る」という自分の行いによって正しさを証明し、それが
出来ない人々を軽視した。彼らの目・判断からすれば、弟子たちは安息日規定を犯す違反者なのだ。

 それに対してイエスは、サムエル記上21章に記される・彼 らも当然知っているダビデの出来事を引き合いに出し(3-4 節)反論する。王として一時代を築いたダビデがその昔、犯した明らかな律法違反は、彼が生きるために・何より神の導きと赦しの中 で行動したのだと…。これによってイエスは、律法は人間の解釈に
よってではなく、神の望んでおられることを行う事なのだと教える。律法は人間を縛り付けるためではなく、人間を生き生きと生かすために神が定められたのだ。
 様々なしがらみからの「解放」を告げるイエスに励まされ、私たちも真の安息日を通して解放されたい。
    難波信義牧師

(2コリント6:14-7:1)「生ける神の神殿」2月6日礼

交通の要・商業都市として栄えたコリントに住むキリスト者に宛てたパウロの手紙。示された冒頭の部分でパウロは、この特異な土地にあって、他宗教との分離を強く求める(14-15節)。ここだけを読むと、もはやキリスト者は完全に社会から分離して、孤立して生きなければならない、という結論になってしまう。

 しかしこれ以前の手紙でパウロ自身が「偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではない。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。

(1コリ5:10)」と記すように、パウロの本意は「分離の強要」ではない。
 パウロはここで「わたしたちは生ける神の神殿(16節)」なのだと言う。その上で、コリントの人々を(ひいては私たちを)旧約の時代から続く神の導き・歴史を支配される主が、イスラエルの民を「息子」「娘」としてくださる恵みに立ち返らせつつ(16-18節)、「一人一人が生ける神の神殿である自覚をもっ
て、神の前に正しい存在であり続けよ」と教える。

 この国に生きる私達にとっても、このパウロの言葉は意義深く響いてくる。宗教間の対話や理解を大切にしつつも、決して「信仰は妥協してはならない」と言う事だ。「生ける神の神殿」の自覚をもって歩みたい。
難波信義牧師

2011年3月2日水曜日

(ヨハネ15:12-17)「真の友と出会うために」1月30日特別礼拝説教

熊本バンドの若者たちは皆、実に強烈な個性をもっていた。彼らは同志社へ入学し、時には新島襄に対して批判的な言動をとることさえあったが、奉教趣意書で表明した決意を持ち続け、新島との関係を生涯にわたって大切にすることができた。その関係は、人間本来のあるべき関係ではなかったかと思う。新島は「親友」を「真友」と書いた。まさしく彼には人生の節目に真の友がいた。

そこには彼自身の思いがある。

彼はヨハネ15:13以下を引用して言う。真の友を求める人は「自分自身が真実であれ」「自分から友を求めよ」「相手の短所は問題にするな」等と。そして「キリストを学び、愛をもって人に接すべき」と。特に、示された聖書には「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とある。この「命(プシケー)」は「身体の命」という意味はもとより「自分自身」「エゴ」など広い意味がある。

それを友のために断念する時、そこに立ち現れるのが「愛」であり、その愛はキリストの十字架に示された神さまの愛に裏打ちされているがゆえに「大きな愛」となって現実に強く、広く働いていく。

私たちもまた教会や日常の出会いと交わりが「真友の交わり」へと深められるよう自覚しつつ歩みたい。(文責:難波) 説教者: 野本真也牧師(同志社理事長)