「安息日に麦の穂を摘む」という場面。まさに「安息日」がキー ワードとなって、イエスとファリサイ派との主張がぶつかり合う。
「安息日」とは、神が天地を造られた時、6日の創造の後、7日目に安息されたことを覚え、人間もまたこの日を安息とし、神の恵みの御業を仰ぐことに集中する日である。(参:出エ20:8-11)ファリサイ派の人々は信仰熱心だった。しかし熱心さのあまり「律法を守る」という自分の行いによって正しさを証明し、それが
出来ない人々を軽視した。彼らの目・判断からすれば、弟子たちは安息日規定を犯す違反者なのだ。
それに対してイエスは、サムエル記上21章に記される・彼 らも当然知っているダビデの出来事を引き合いに出し(3-4 節)反論する。王として一時代を築いたダビデがその昔、犯した明らかな律法違反は、彼が生きるために・何より神の導きと赦しの中 で行動したのだと…。これによってイエスは、律法は人間の解釈に
よってではなく、神の望んでおられることを行う事なのだと教える。律法は人間を縛り付けるためではなく、人間を生き生きと生かすために神が定められたのだ。
様々なしがらみからの「解放」を告げるイエスに励まされ、私たちも真の安息日を通して解放されたい。
難波信義牧師