2010年12月17日金曜日

(イザヤ55:6-11)12月5日説教 「神に立ち返る」

「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり…高く超えている(8-9節)」と神は言われる。このように神と人間との間には、無限の距離がある。にもかかわらず、神はどこまでも・いつまでも人間(私たち)の事を心にかけてくださっているのだと聖書は繰り返し証言する。事実、ここでも続けて、雨や雪が大地を潤すように、神の言葉が私たちを潤すのだと語られる(10-11節)。雨が降り、大地を潤し、作物はその恵みに応える…。
 
しかし私たちの生活現場はコンクリートやアスファルトに覆われ、大地はみなその覆いの下に隠されてしまっている。雨は側溝に流れ込み処理される。それはまるで、神の言葉や恵みが、その本来の力を発揮する前に、聞き流され処理されてしまっている私たちの現実を表しているようだ。人間の心にコンクリートやアスファルト以上の頑なな覆いがかぶさり、神の言葉を全く受け止めようとしない私たちの現実である。
 
アドヴェントにあって私たちは、この1年の間に心の上に積み重なってしまった覆いを、力をふるって打ち砕かなければならない。「打ち砕かれ悔いる心」こそ「神の求めるいけにえ(詩51:19)」である。この事を覚えて、自らをかえりみつつ、神に立ち返って歩みたい。
                                             難波信義牧師

(ルツ2:10-12、ルカ1:39-45)11月28日説教 「内なる飾り」

ベツレヘムの人々はナオミと異邦人の嫁ルツのことをひそひそと噂しました。ひそひそ話が人を傷つけます。相談する相手もなく、二人は家の中にこもってしまいます。しかし、ボアズが落穂を拾うルツを受け止めてくれました。ボアズの母も異邦人で、その苦労を分かっていたからです。そのことで、ナオミもルツも本当に勇気づけられました。

さて、それから約千年の時を経て、マリアのもとに天使が遣わされました。神の御子を宿している。マリアはそのことを誰かに相談したくなりました。許婚のヨセフは正しい人でしたが、正しさだけで人は救えません。黙って受け止めてくれる愛の隣人が必要でした。マリアは親類のエリサベトに相談しました。エリサベトは黙ってマリアの言葉に耳を傾けてくれました。エリサベトも聖霊によって身ごもっていたからです。そのことで、マリアは本当に勇気づけられました。

私たちも、真の隣人である主イエスに勇気づけられています。主イエスはいつも私たちの祈りを聞いてくださるからです。その御姿に倣い、また、ボアズやエリサベトの姿勢に倣って、私たちも、この世界で小さくされている声に耳を傾け、祈っていきたい。その姿勢をもって、私たちの「内なる飾り」とし、アドベントを歩みましょう。      竹前篤(宮崎教会)牧師

(ルカ12:13-21)11月21日説教「神の前での豊かさ」

収穫感謝の礼拝にあたり、示された聖書は、「分かち合う心」を教えるイエスの譬えである。「愚かな金持ち」の譬えだが、何が愚かなのか。この金持ちの発言一つ一つを、17節以下から厳密に訳し直すと、「金持ちは『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに私の穀物や私の財産をみなしまい、こう私の魂に言ってやるのだ…』」となる。

彼は「私の」「私の」「私の」と繰り返し、自分の事しか考えていない。隣人も神も否定し、自分の力で生きて行くことができるかのように思い上がっていることが、彼の「愚かさ」である。イエスは言う。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこのとおりだ(21節)」と。

すなわち「神の前での豊かさを大切にしなさい」と。それは、与えられた賜物を私達一人一人が自覚し、用いられるままに用い、また常に必要を満たしてくださる神に、より頼み信頼して生きるということである。分かち合いつつ共に生きる…。これこそが「収穫感謝」の意義である。日々、覚えて歩みたい。
                                               難波信義牧師