2014年5月15日木曜日

5月11日の説教要旨

「神は愛です」
(Ⅰヨハネ4:13-21) 難波信義牧師

「完全な愛は恐れを締め出す(18)」
とある。まさに神の愛を信じ、信頼する
事ができるなら、死の恐れさえ閉め出す
事が出来る。これは人生の総決算につい
ても言える事であり、恐れず生き、恐れ
ず未来に向かい、恐れず人生を終え、恐
れず神の前に立つ…。さらにヨハネは、
そのような関係が既に神と私たちの間に
与えられているのだと言う。「わたしたち
は、わたしたちに対する神の愛を知り、
また信じています。神は愛です(16)」。
特に、復活節を歩む私たちに、改めて
十字架の意義を示すように、主の十字架
を指さし「ここに愛がある(10)」と言
う。その上で、「こうして、愛がわたした
ちの内に全うされているので、裁きの日
に確信を持つことができます。この世で
わたしたちも、イエスのようであるから
です(17)」とも言う。思わず「『わたし
はイエスのようである』なんてとんでも
ない」と言いたくなるが、これは「『父な
る神との関係において』、この世でわたし
は、イエスのようである」という事であ
る。イエスと神との直接的な関係のよう
に、神と私たちは直接的な関係の中に置
かれていると言うのだ。
私たちの「生」の現実には、様々な困
難や恐れがある。しかし、神の愛にとど
まり、神の愛を信じて生きていく事が大
切なのである。
5月4日の説教要旨

「イエスは良い羊飼い」
(ヨハネ10:7-18) 難波信義牧師

「わたしは良い羊飼いである(11,14
節)」とイエスご自身が教えられた場面。
この言葉によって、私たち人間は羊であ
ると示される。「主は羊飼い」「人間は羊」
という構造は新約に限った事ではない。
詩編23編などにも「主は羊飼い」と始
まり、このような考えが旧約の時代から
あった事が分かる。さらに「わたしたち
は羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角
に向かって行った(イザヤ53:6)」とあ
るように、旧約の時代から人間が、迷い
やすい羊のような存在である事も語られ
てきた。
だから私たちは聞き分けなければなら
ない。永遠の神の言葉を。実際、羊には
自分を導く羊飼いの声を聞き分ける能力
がある。迷い、自分の身を守れない羊は、
羊飼いの声を聞き分ける事によって、そ
れらを補う。このように私たちも、様々
な点で弱いけれども、羊飼いの声を聞き
分け、従う限り、正しい道へと歩む事が
出来、羊飼いの守りと導きの元で、豊か
に生きる事が出来るのである。
さらにイエスは言われる。「羊もわたし
を知っている(14節)」と。主に全てを
知られ、愛されている私たちは、どれだ
け主の事を知っているだろうか。主の招
き、導きを知っているだろうか。深い懺
悔と共に、御旨に聞き、従う歩みを成す
私たちでありたい。

4月27日の説教要旨


「見えないものに目を注ぐ」(Ⅱコリント4:7-18) 難波信義

この手紙を記したパウロは、私たち人間を「土の器」だと言う。しかしその中にはイエス・キリストという宝、あるいはイエス・キリストを信じる「信仰」という宝(13節)があるのだという。ところで私たちが「土の器」である事を実感するのは苦難の時であろう。まさに自らの弱さ、脆さ、はかなさを痛感させられるからである。他方、宝が宝として真価を発揮するのも苦難の時であろう。だからパウロは記す。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない(8〜9節)」と。また宝の真価について、「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために(10節)」とも言う。絶望を示すようなこの表現だが、「イエスの死を体にまとう」と言う時、それは「苦しみにおいてイエスさまと一つになる」という希望の言葉なのである。孤独な苦難ではないという事である。さらに「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり〜(15節)」とあるように、自分の内にキリストの命が現れるとするならば、それは他者を生かすためなのである。だから私たちは、隣人のために生きる歩みを・そのような復活の命に輝いて生きる歩みを成して行きたい。

2014年5月14日水曜日

4月20日の説教要旨


「そこでお目にかかれる」
(マルコ16:1-8)難波義信牧師

「空虚な墓」を通して主の復活が示さ
れる場面。そもそも主の復活を信じると
はどういう事なのか。天使は言う。「あの
方は…ガリラヤに行かれる…そこでお目
にかかれる(7節)」と。「お目にかかる」
という事がポイントである。つまり「復
活を信じる」という事は「主との出会い
を信じる」という事である。主の御言葉
と愛を知り、人生が変えられる事である。
ガリラヤは弟子たちにとって主の招き
の原点であり、再び出会い変えられた場
となった。私たちにもそれぞれのガリラ
ヤがある。主との出会いを求めて歩もう。

4月6日の説教要旨


「主の恵みを確かめ
ここから歩み出そう」
(使徒26:12-18) 難波信義牧師

新年度の歩み出しにあたり年間目標・
聖句から理解を深めたい。特に次年度に
創立130年を迎える、その準備の年とし
て「感謝と派遣」の自覚を新たにしたい。
示された御言葉は16節だが、これは
「パウロの回心」と呼ばれる場面の一部で
ある。特に使徒言行録には3度も「パウ
ロの回心」の記述があり、それほど重要
な出来事であり、またパウロ自身、何度
もこの出来事を語っていたからこそ、3
度も記録されたのだろう。その上、語ら
れている内容は、伝道者パウロからすれ
ば隠しておきたいような過去であった。
しかし彼は包み隠さず語る。なぜなら、
キリスト者を迫害していたその人間が、
イエスの召命を受けたのだという事実、
この事実こそが、イエスとは誰であるか、
イエスの福音とは何であるかを明確に示
していたからである。罪の赦しの福音を
語るパウロは、罪の赦しというものがど
れほど徹底したものであるのかを、身を
もって示したのである。
思えば私たちにも、様々な形での回心
があっただろう。それを経て今の「私」
がある。このような前提に立って16節
の言葉を読むと、これが私たち一人一人
に示された主の召命として響いてくる。
主の招きに感謝し、導きを確信し、遣わ
されるままに歩む1年としたい。