2014年5月15日木曜日

4月27日の説教要旨


「見えないものに目を注ぐ」(Ⅱコリント4:7-18) 難波信義

この手紙を記したパウロは、私たち人間を「土の器」だと言う。しかしその中にはイエス・キリストという宝、あるいはイエス・キリストを信じる「信仰」という宝(13節)があるのだという。ところで私たちが「土の器」である事を実感するのは苦難の時であろう。まさに自らの弱さ、脆さ、はかなさを痛感させられるからである。他方、宝が宝として真価を発揮するのも苦難の時であろう。だからパウロは記す。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない(8〜9節)」と。また宝の真価について、「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために(10節)」とも言う。絶望を示すようなこの表現だが、「イエスの死を体にまとう」と言う時、それは「苦しみにおいてイエスさまと一つになる」という希望の言葉なのである。孤独な苦難ではないという事である。さらに「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり〜(15節)」とあるように、自分の内にキリストの命が現れるとするならば、それは他者を生かすためなのである。だから私たちは、隣人のために生きる歩みを・そのような復活の命に輝いて生きる歩みを成して行きたい。