イエスは「わたしは良い羊飼いである」と言われる。救い主と人間の関係を、羊飼いと羊に譬えて言う。特に、実際にこれが語られた社会背景は、羊飼いと羊は身近な存在であったため、より分かりやすいものだった。現代に生きる私達も、聖書・例えば詩編23編などを通して、その関係を理解し、ここから、平和に満ちた、穏やかな風景をイメージする。しかし、当時の現実的な関係はもっと厳しいものだった。羊飼いは羊を大切にし、襲い来る野獣や強盗には、体を張って羊を守る。聖書が、救い主の姿を羊飼いに譬える場合、私達が思い浮かべなければならないのは、こう言う羊飼いの姿である。まさしく、体を張って・命をかけて、羊(人間)を守る。そしてこの箇所のイエス・キリストの姿は、まさしく、そのような羊飼いの姿なのである。主は、悩み多い・欠け多い・破れ多い私達一人一人を、全存在をかけて、守り、導いて下さる。ここに感謝と希望を持って、主にゆだねつつ歩む私達でありたい。
難波信義牧師
2010年4月22日木曜日
「平和があるように」(ヨハネ福音書20:19-29 )4月11日説教
前半(19-23節)はイースター当日の出来事であり、復活の主が弟子たちに現れるという場面。続けて短く、その週の間の出来事があり(24-25節)、さらに一週間後の出来事へと続く(26-29)。イエスの死の現実に絶望し、自分自身の事も不安の中で「恐れ」ていた弟子たちに、復活の主が現れ「平安」を告げる。「鍵(19節)」は、「恐怖」の中で、殻に閉じこもる・心を閉ざす弟子たちを表しているのではないか。その殻を破るように、イエスはその真ん中に立たれる。しかしその一週間後、再び恐怖の中で殻に閉じこもる弟子たちの姿がある。トマスを除く弟子たちは、復活の主に出会っていながら、結局は「不信」に陥っていた。この弟子たちの真ん中に、再び復活のイエスが立たれる。不信を繰り返す弟子たちに、イエスはさらに具体的に、ご自身の御傷を示す。「触りなさい。あなたが再び信じるようになるために、わたしは何度でもその苦痛を負おう」と言われるイエスの姿が示される。この主に信頼して、歩む私達でありたい。 難波信義牧師
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