2014年8月7日木曜日

8月3日 の 説 教 要 旨

「正義を洪水のように」

(アモス5:21-27) 難波信義牧師

「祭りにまさる正義」との表題が付け
られた場面。神ははっきりと「お前たち
の祭りを憎み、退ける(21節)」と言わ
れる。「祭り」とは私たちで言う「礼拝」
の事だが、アモスが活動した時代のイス
ラエルは社会的不正がはびこり、指導者
たちや上流階級の人々は私利私欲に走り、
祭儀(礼拝)は堕落していた。その現状
に対して、神は怒りをもって語られる。
その中で神の求める事はただ一つ。「正義
を洪水のように、恵みの業を大河のよう
に、尽きることなく流れさせよ。」(24節)
平和聖日にあたり、否、今を生きる私た
ちに示された御言葉である。
私たちは、かつてこの国が積極的に戦
争を行い、多くの人々を戦場に駆り立て、
戦争に巻き込み、たくさんの命を奪った
事を忘れない。一部の人々の欲望のため
に、たくさんの命が捨てられた事を忘れ
ない。その中にあって、上記の言葉と共
に、イエスが語られた「平和を実現する
人々は幸いである。その人たちは神の子
と呼ばれる(マタイ5:9)」との言葉が響
いてくる。
富める者が貧しい者から搾取するのは、
神が求める平和ではない。強い者が弱い
者を圧迫するのは、主が喜ばれる平和で
はない。人間が勝手に定める「正義」で
はなく、神の前での正義を守り、平和を
 7月27日 の 説 教 要 旨

「よく見えて」

(マルコ8:22-26) 難波信義牧師

「ベトサイダで盲人をいやす」との表
題が付けられた場面。盲人は段階的に癒
される。最初はぼんやりと見えて、そこ
から再びイエスが両手をその目に当てる
と、「よく見えてきていやされ、何でもは
っきり見えるようになった(25節)」。
この短い出来事を通して二つの事が示
される。一つは、この人が繰り返しイエ
スさまに触れていただいたという事が、
今を生きる私たちにも、何度も触れてく
ださり、導いてくださっているという事
である。「教会」「礼拝」「説教」を通して、
繰り返し触れ、「何か見えるか(23節)」
と常に確認してくださるのである。
もう一つは、最初はぼんやりと見えて
いたものが、「よく見えてきて」(※直訳
は「目を懲らして見る」)、つまり見え始
めたものを一心に見つめることによって、
はっきりと見えてきたのであり、この事
を通して、私たちも、見え始めたものを
大切にする・見え始めたものに目を向け
る者でありたい。
パウロが記した「見えないものに目を
注ぐ(Ⅱコリ4:18)」につながる。目に
見えるものではない、一時的なものでは
ない、変わらざる・動かざる・誰にも奪
われない・永遠なるもの、本当に価値あ
るものに目を注いで、そこにしっかりと
人生の土台を据えて私たちは生きる。そ
の歩みを、イエスさまが支えてくださる。