イエスが予告した通り(14:30)、ペトロが否認する場面。この場面を通して、私達はペトロを「臆病者」として捉えてしまう。しかし他の弟子たちが逃げ出しても、ペトロは密かに後に従っていた。先週の場面でも、イエスの死刑判決を聞き、虐待を受けるイエスを真っ直ぐに見つめ、その姿を心に焼き付けていた。
今日の場面で「イエスの仲間だ」と指摘されても、それを否定しつつも逃げ出さなかった。自らが逮捕・連行されてしまえば、受難の主を心に焼き付ける事が出来ない、と判断したからではないか。
しかしここで問題なのは、そうする事によって結果的にイエスを裏切っているのだという事を、ペトロは自覚していないという事だ。この場面で鶏が鳴くが、最初、ペトロは自覚しなかった。三度目で、初めてペトロは裏切りを自覚し泣いた。三度目の鶏の鳴き声で、ペトロはイエスの言葉を思い出し、悔い改めた。だから泣いたのだ。この悔い改めとは、自らの弱さを自覚した瞬間でもある。
このようにしてペトロには「気付き」のチャンスが与えられた。神は、弱い人間・気付かずに不信や背信を起こす人間に、「気付き」のチャンスを与えて、立ち返らせてくださる。感謝しつつ、悔い改めて歩む者でありたい。
難波信義牧師