2014年10月16日木曜日

10月12日 の 説 教 要 旨

「心の貧しい人々は幸い?」
(マタイ5:1-12) 難波信義牧師

「山上の説教(5〜7章)」の語り出し
の部分が示された。特に状況設定である
1〜2節を詳しく見て行くと、そこには
イエスを中心とした二重の輪が見える。
すなわち内側の輪は弟子たちであり、外
側は群衆である。さらにこの立場の決定
的な違いは、主の語りかけを「私への語
りかけ」として、しっかり聞いてるか否
かという事である。
それを踏まえて第一声を見ると「、心の
貧しい人々は幸いである、天の国はその
人たちのものである(3節)」とあった。
「貧しさの、どこが幸いなのか!」と問い
たくなる、インパクトのある言葉だが、
このような反応こそが既に、外側の群衆
の場所に立っているという事を示す。
「私への語りかけ」としてこれを聞く
時、自らの根源的な貧しさを自覚せざる
を得なくなる。「罪深さという現実」「他
者を愛する事の欠乏」「霊的な貧しさ」と
いう現実が、覆い被さってくる。と同時
に、「主よ、わたしを憐れんでください」
と叫ばざるを得なくなる。
まさに、ここに「幸いなるかな」との
主の言葉が響いてくる。貧しさの自覚に
立った時、憐れみを求める神がおられる
と言う事、またその愛と導きの深さを知
る事、それらがまさに「幸い」なのだ。
10月5日 の 説 教 要 旨

「ユダの裏切りと主の晩餐」
(マルコ14:10-25) 難波信義牧師

イエスへの裏切りを企てたユダは、そ
の後、素知らぬ顔で仲間の所に戻り、主
の晩餐の席に着いた。しかしイエスだけ
はその事を知っていた。にもかかわらず
「あなたがたのうちの一人で…わたしを
裏切ろうとしている(18)」と、敢えて
名指しされなかった。これはイエスらし
いやり方だと思う。イエスは純粋にユダ
の事を思って、名指しされなかった。
ユダが着いていたその食卓が何である
かは、22節以下に示される。イエスは
パンを裂き、「取りなさい。これはわたし
の体である」と言われた。イエスの体は、
私たちの罪の赦し・贖いのために十字架
の上で裂かれた。さらに杯を取り、「わた
しの血、契約の血である」と言われた。
私たちを、神との特別な関係に置くため
に・招くために、血を流されたのである。
このように、主の食卓とは、神の愛と赦
しが、共に囲む一人一人に手渡される食
卓なのである。
ユダが素知らぬ顔で食卓に着いたよう
に、私たちも素知らぬ顔で席に着いてい
る。しかしユダの全てをキリストがご存
じであったように、キリストは、私たち
の全てご存じの上で、私たちを愛してく
ださるのである。ここに立ち帰り、罪の
赦しを自覚して、歩んで行きたい。
9月28日 の 説 教 要 旨

「できるかぎりのこと」
(マルコ14:1-9) 難波信義牧師

「はっきり言っておく。世界中どこで
も、福音が宣べ伝えられる所では、この
人のしたことも記念として語り伝えられ
るだろう(9節)」。この言葉通り「この
人」のした事は、時間と空間を越えて、
私たちに伝えられた。しかし、その内容
を考えると、いったいここに、どのよう
な意味があるのか。
「この人」はイエスに香油を注ぐが、
これは、この人のイエスに対する精一杯
の愛と感謝の表現であっただろう。しか
し冷静に見れば、実に非常識極まりない
行為である(非常に高価な香油を流して
しまう・イエスを油まみれにする・むせ
るほどの香りが食事の席に充満する)。
しかしイエスは、この非常識な行為を
「わたしに良いことをしてくれた」と言う。
これはそのまま、御心を問わず、ただた
だ「神のため・主のため」と必死に、し
かし的外れな行為をしている私たちに対
して語られた、イエスの言葉でもある。
つまり、ここで重要なのは「この人」の
行為ではなく、その愚かな行為をイエス
が「良いこと」として受け入れてくださ
ったという事である。事実イエスは「こ
の人はできるかぎりのことをした」と言
ってくださった。
全ての業が、神に用いられ、イエスに
受け入れられると信じ、安心して「でき
るかぎりのこと」を成して行きたい。
 9月21日礼拝説 教 要 旨

「感謝と献身のしるし」
(マルコ12:38-44) 難波信義牧師

前半にある「律法学者を非難する」と
いう場面では、イエスが批判した律法学
者たちの姿が目に浮かぶようだ。自分の
権威を振りかざし、人々から重んじられ
ること喜び、弱い人々を足蹴にしながら、
外見は敬虔さを装う、実に偉そうな姿…。
しかし彼らは最初、神に仕える働きに身
を献げて、謙虚にスタートしたはずであ
る。「献身」の思いを持っていたのだ。と
ころが「律法の権威」は「自分の権威」
へとすり替わってしまった。彼らの関心
が「神の目」から『人の目』に移ってし
まった。これを指して、イエスは「律法
学者に気をつけなさい」と言われた。
「人の目」について考える時、後半の
「やもめの献金」の場面が示される。貧し
いやもめが、全財産であるレプトン銅貨
2枚(現在の日本円で7〜80円)を献
げた。もし彼女が「この程度で、何の役
に立つのか」と考えていたら、献げるこ
とはできなかっただろう。彼女は「自分
の目」を含めた「人の目」ではなく「神
の目」だけを考えて献げた。神に信頼し、
神に委ねて、貧しい自分をそのまま、神
に献げたのである。
私たちも、礼拝を通して自分自身を神
に献げる。その象徴的な行為・「感謝と
献身のしるし」が「献金」なのである。