使徒の一人ペトロが「足の不自由な男を癒す」場面。冒頭には足の不自由な男を取り巻く厳しい現実が描かれる。「施しを乞うため」「置かれていた」(2節)、すなわち他人の憐れみによって生きるために、荷物でも置くようにドサッと運ばれてきた、と言うのだ。彼はこの現実の中で、傷つく心を押し殺して、「魂を鈍く
して」生きていたのだ。
ところが、その現実が「イエスの名」を示すペトロの登場によって一変する。彼は「イエスの名」によって、自らの存在の痛み・魂の叫びを、しっかり受け止めてくださる存在を知った。それこそが「イエスの名」、つまりキリスト・イエスそのものであった。「私たちの魂の叫びを聴いてくださる神」「共に苦しんでくださる神」とし て来られたイエスの存在を知る事によって、鈍くなった魂は生き返り、命が輝く。
私たちを取り巻く厳しい現実(戦争や基地問題、環境破壊や公害、心の病や身体的障碍、等々…)の中で、ともすれば「魂を鈍くして」生きている・生きようとする私たちの心の中心にも「イエス・キリストの名」が示される。後戻りできない一歩を踏み出してしまったにも関わらず、その鈍くなった魂に、命の水が流れるのだ。
難波信義牧師