イエスが裁判を受けるという場面。イエスは黙し続けるが、「お前はメシアなのか」との問いに「そうだ」と答えた。メシアとは本来、神の権威を持ち合わせた救い主のことだが、この時代のユダヤ人たちは、メシアをこの世の(政治的)権力者として期待していた。だから目の前で、弱く、見捨てられたようなイエスの姿はメシアから程遠く、そのイエスが「そうだ(メシアだ)」と言うならば、こんな冒涜はないと判断した。そしてこの裁判の目的である死刑判決が成された。もしイエスがここでも黙り続けていたら死刑判決は無かった。
しかしイエスは、この決定的瞬間に大胆に語る。神の前で正しいこととして、イエスは自分の命よりも「真理の実行」を選んだ。「真理の実行」には苦難が伴う。これを考える時、キング牧師のことを思う。彼はある説教の中で、「38歳の時に、正義のために立ち上がるように召し出されて、色々な恐れからそれを断り、90歳まで生きたとしても、38歳で死んだのと同じだ。神が共にいてくださるのだから、どんな苦しみがあっても、正義のために立ち上がれ。」と語った(参考「キング自伝」p.402-403)。厳しい説教だが、イエスはもっと厳しい現実を、私たちのために歩まれた。ここに立ち返り、私たちも「真理の実行」を成す者でありたい。 難波信義牧師