9日の「灰の水曜日」より受難節に入った。最初の聖日に、イエスが誘惑を受けられた場面が示された。
「40日間の断食」そのものが、想像を絶するものであるが、そこで第一の誘惑である「パンの誘惑」が起こる。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ(3節)」と…。それに対してイエスは「人はパンだけで生きるものではない」と、この誘惑を退けられた。
当然の事ながら、イエスはここで「パンの問題(食の問題)」を軽んじている訳ではではない。ここでイエスが引用(申命記8章)したのは、神の導きによってエジプト脱出を果たし、荒れ野の40年も神によって守られ養われた、イスラエルの民に対して語られた言葉であり、これによって「神の養いの中に生かされている」と言う事を示す。
すなわち「食」だけでなく私たちの「生」そのもの・その根底を神が支えてくださる、と言う事だ。私たちは自分の力でパン(食料)を得ていると考え、神無しに生きて行けると錯覚する。この誘惑にある私たちに、イエスは示す。「人はパンだけでいきるものではない。人生の根底を支え導く神によって、生かされているのだ」と。この神に信頼し、そして全ての誘惑に打ち勝つ主に従って、歩む者でありたい。難波信義牧師