棕櫚の主日・受難週の始まりに、イエスのゲツセマネの祈りの場面が示された。「父よ…この杯をわたしから取りのけてください。しかし…御心のままに…」(42節)とのイエスの孤独な祈り・十字架を目前にした祈りがある。さらにここには「イエスは苦しみもだえ…、汗が血の滴るように地面に落ちた。(44節)」ともある。
それはまるで、イエスが死に恐怖しているかのようだ。「イエスともあろうお方が…」と困惑してしま
う。なぜイエスは怖れ、苦しむのか。それは、神の前に罪の裁きを免れ得ない「人間の死」をイエスは引き受けられるからだ。神の凄まじい裁きを知るイエスは、この死によって神に見捨てられることの本当の恐ろしさを、ただ一人知っておられた方なのだ。
だからイエスが恐れる死とは、人間の手によってもたらされる死ではなく、神の裁きなのである。イエスはいつでも逃げ出すことができたにも関わらず、父なる神への従順によっ
て、常にみ心に従われた。一緒に連れてきた弟子たちは眠りこけ、さらに父なる神からも見放されようとしている。そしてイエスは死を目の前にして、苦しみ悶え、苦闘する。この苦悩と孤独な死こそが、私たちのためだった。難波信義牧師