2010年8月19日木曜日

(マルコ10:46-52)「あわれみをたまえ」8月15日説教

「ダビデの子イエスよ」とストレートに求める盲人バルティマイと、それを叱りつけて黙らせようとする人々とが対照的に描き出される。

人々はイエスの素晴らしさに触れながらも「ナザレのイエス」という理解しかない。「ナザレの町出身のイエス」と言う事で、「ただの人イエス」としか見えていないのに対して、バルティマイは「ダビデの子イエス」と、つまり古くから預言されてきた「救い主」「メシア」としてイエスを見ている。

物理的に「見える」人々はイエスを正しく見ることはなく、盲人であったバルティマイはイエスを「私の救い主」として見ているのだ。さらに彼は「わたしを憐れんでください」とイエスに求める。

「自分の真ん中に神さまが必要だ」「私は神の憐れみによってのみ生かされる」と…。私たちは、自分が憐れみを受けなければならない存在だ、と言う事をどれだけ自覚しているか。「憐れみを受けるほど惨めな存在ではない」と…。

しかし、神の前に、信仰を持って、委ねて生きる事こそが「神の憐れみの中で生きる」と言う事だ。もっと素直に「あなた無くしては生きられない」と求める者でありたい。 難波信義牧師