2010年8月19日木曜日

(マルコ10:13-16)「手を置いて祝福された」8月8日説教

イエスのもとに、こどもたちを連れてきた人々に対して、弟子たちは「叱った」。当時の子どもに対する理解は「宗教的な教えを理解できない存在」というものであり、そこから「イエス様を疲れさせるだけ」という思いもあっただろう弟子たちは、こどもの存在を排除しようとした。

「叱った(13節)」弟子たちに対して、イエスはもっと厳しく対応した。すなわち「憤った(14節)」。何がイエスをここまで怒らせたのか。弟子たちはこどもたちを「役に立たない存在」として捉えた。

しかしイエスは「役に立つかどうか」でこどもたちを見ない。「あなたがあなたらしく在る」と言う事、その「存在の喜び」をもってこどもたちを(ひいては私たちを)見ておられる。「あなたの存在自体が尊いのだ」と。その上で「子供のように神の国を受け入れ(15節)」なさい、と教える。

この時、こどもたちは何も分からないままに連れてこられた。そして何も分からないままに祝福された。つまり「子供のように」とは、「導かれるまま」「ありのまま」と言う事なのだ。存在を喜んでくださる神が、私のありのままを祝福してくださる。ここに感謝と信頼を持って歩む者でありたい。                  難波信義牧師