2014年9月10日水曜日

8月31日礼拝 の 説 教 要 旨

「憐れみを求めて」

(マルコ10:46-52) 難波信義牧師

目の見えないバルティマイを癒すとい
う場面だが、「安心しなさい。立ちなさい。
お呼びだ。(49節)」という言葉が印象的
である。これはイエスの言葉ではなく、
バルティマイを招くイエスの言葉を聞い
た、周囲の人々の言葉であるが、この場
面では大きな意味を持っている。
「安心しなさい」とあるように、バル
ティマイは不安の中にあった。あらゆる
癒しの奇跡を行われるイエスを前に、そ
れは唯一の希望であると同時に、「拒絶さ
れるかも知れない」という思いもある。
事実、周囲の人々は最初、叫ぶ彼を黙ら
せようとした。その不安に対して「安心
しなさい」との言葉がかけられる。
「立ちなさい。お呼びだ」とは、目の
見えない人に対しては冷たく、厳しい言
葉のように思うが、イエス自身「呼んで
きなさい」と言われたように、ここには、
暗闇の中で、道端に座り込む事しかでき
なかった彼を立ち上がらせ、そこから救
い出し、一歩を歩み出さようとする、慰
めに満ちた呼びかけ・招きなのである。
彼は「上着を脱ぎ捨て…イエスのところ
に来た(50節)」。それはこれまでの生活
を彼自身が捨て去ったという事である。
新しく歩み出すための招きと、具体的
な力を与えてくださる主に感謝。