2011年1月26日水曜日

(ルカ4:16-30)「今日、実現した」1月23日礼拝説教

故郷で礼拝説教を担当することになったイエスは、イザヤ書61:1-2を朗読する。その箇所はまさに、イエスが神から遣わされた目的を要約した御言葉であり、それによってご自身を「旧約の預言の成就」と宣言されたことになる。ところがそこはイエスの故郷…。青少年期のイエスを知る人々は「しょせん、あいつはヨセフの子」という態度を示す。あるいはイエスがカファルナウム(異邦人の町)で行った奇跡の噂を知っている者たちは、このナザレ(純粋なユダヤ人の町)ではもっと驚くべき業を見せるのが当然だ、と言わんばかりの態度を示す。

イエスの一部しか知らない人々や、「同郷」という、場合によっては何の意味も持たないはずの「特権意識」に包まれた人々は、それによってイエスを信じることができない。だからイエスは25節以下を通して「神の恵みは、疑いや特権意識をもった人にではなく、信じる心をもっている人々に、真っすぐに示されるのだ。
その恵みはユダヤ人であろうが異邦人であろうが、全く同じように、示されるのだ」と教える。私たちはイエスの何を見ているのか。見たいところだけを見るというのは、自分の欲望に照らして、イエスを小さくしているのであり、私たちはその事に気付かなければならない。 難波信義牧師