イエスは弟子たちに、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われた。「子どもの日」(花の日)の合同礼拝にあたって、「子どものようになる」ことについて考えたい。
私は『少女ポリアンナ』の物語が好きである。両親を亡くしたポリアンナはポリーおばさんに引き取られる。彼女は試練の中で明るく生きていく。周囲の大人たちの心も明るくされていく。その秘訣は父親から教わった「良かった探し」にあった。どんなことの中にも良いことを見つけ出すゲームである。百年前のこの物語は、親を亡くした多くの子どもたちを励ましたことであろう。
先週、アメリカの国際ピアノ・コンクールで辻井伸行さんが優勝した。全盲という試練の中で、両親、本人、周囲の人々が協力して「良かった探し」をした結果であったと言えないだろうか。私たちは、大人も子どもも、みんな神様の子どもとして、ポリアンナのように「良かった探し」ができるようでありたい。
山下慶親牧師
2009年6月25日木曜日
2009年6月4日木曜日
「一人一人の上に」(使徒言行録2:1-13)5月31日説教
五旬祭の時、弟子たち一同の上に聖霊が降ったと書かれている。ドラマティックな描写であるが、文字どおりに受けとめる必要はない。なぜなら筆の立つ作者はドラマティックな表現を他の出来事の記述にも用いているからである。
聖霊降臨の結果、言葉の「隔ての壁」(エフェソ2:14)が取り除かれて、一同は「ほかの国々の言葉で話し」だしている。
教会の長い歴史において、言葉の「隔ての壁」が取り除かれて来た。福音が世界中に伝えられ、聖書が多くの言語に翻訳されてきた。現在のところ、聖書は世界の2,454の言語に翻訳されている。
聖霊は弟子たち「一人一人の上に」降っただけではない。10章では異邦人の上にも注がれていて、ユダヤ人たちは驚いている。聖霊は決して特定の人々の上に降るのではない。私たち「一人一人の上に」注がれているからである。
心の窓を開いて聖霊を受け入れることで、さまざまな「隔ての壁」(社会的・人間関係的・心理的)が取り除かれ、共に福音にあずかれるようでありたい。 山下慶親牧師
聖霊降臨の結果、言葉の「隔ての壁」(エフェソ2:14)が取り除かれて、一同は「ほかの国々の言葉で話し」だしている。
教会の長い歴史において、言葉の「隔ての壁」が取り除かれて来た。福音が世界中に伝えられ、聖書が多くの言語に翻訳されてきた。現在のところ、聖書は世界の2,454の言語に翻訳されている。
聖霊は弟子たち「一人一人の上に」降っただけではない。10章では異邦人の上にも注がれていて、ユダヤ人たちは驚いている。聖霊は決して特定の人々の上に降るのではない。私たち「一人一人の上に」注がれているからである。
心の窓を開いて聖霊を受け入れることで、さまざまな「隔ての壁」(社会的・人間関係的・心理的)が取り除かれ、共に福音にあずかれるようでありたい。 山下慶親牧師
2009年5月28日木曜日
「イエス、私たちの平和」(エフェソ2:11-22)5月24日説教
2年ぶりに訪問できたことを嬉しく思います。大邱南門教会では、毎月の聖餐式で草葉町教会を憶えて祈っています。
神は平和な世界を望んでおられます。私たちは平和を求める人生を歩まなければなりません。しかし、エフェソの教会は愛を失い、人々が反目する状態に陥っていました。そのためパウロは、イエスが「隔ての壁」を取り除かれたことを伝えようとしました。
実際、イエスは「私たちの平和」です。(1)人間は罪を犯したため、神との間に壁ができました。しかしその壁はイエスの贖いによって取り除かれました。(2)人間と人間の間の壁も、隣人愛の大切さを教え、十字架にかかられたイエスによって取り除かれています。また、(3)人間の罪は自然(環境)の荒廃をもたらし、自然との間に壁ができています。しかしこの壁も、多くの人がイエスに従うことによって取り除いていくことができます。
イエスは「私たちの平和」です。世界が平和になるように伝道に励み、イエスの愛の実践者になりましょう。 大邱南門教会 黄 昞元牧師
神は平和な世界を望んでおられます。私たちは平和を求める人生を歩まなければなりません。しかし、エフェソの教会は愛を失い、人々が反目する状態に陥っていました。そのためパウロは、イエスが「隔ての壁」を取り除かれたことを伝えようとしました。
実際、イエスは「私たちの平和」です。(1)人間は罪を犯したため、神との間に壁ができました。しかしその壁はイエスの贖いによって取り除かれました。(2)人間と人間の間の壁も、隣人愛の大切さを教え、十字架にかかられたイエスによって取り除かれています。また、(3)人間の罪は自然(環境)の荒廃をもたらし、自然との間に壁ができています。しかしこの壁も、多くの人がイエスに従うことによって取り除いていくことができます。
イエスは「私たちの平和」です。世界が平和になるように伝道に励み、イエスの愛の実践者になりましょう。 大邱南門教会 黄 昞元牧師
2009年5月21日木曜日
「パウロの感謝」 (フィリピ4:10-20)5月17日説教
35年前、米国・合同キリスト教会(UCC)で牧師となる按手礼を受けた。それ以降、東京、タイ、京都、滋賀、熊本の教会や大学で働いてきた。いろんな方から支えられ助けられたことを思い出す。
伝道者パウロは第2回宣教旅行の時、計画変更を余儀なくされた。挫折感に襲われていたであろう。しかし、彼は夢枕に現れたマケドニア人の幻に応えて、トロアスの港から船出した。
マケドニアの最初の宣教地フィリピでは家族全員での改宗者も与えられた。その後、フィリピの人々はパウロの活動を物心両面で支え続けていく。パウロの投獄を聞いた時には、エパフロディトを派遣して世話をさせた。フィリピの信徒への手紙は、フィリピの人々の心遣いとパウロの感謝の思いで満ちている。
相互に信頼関係があり、憶え合っていることは、どれほど大きな励ましになるだろうか。私たちは獄中のパウロからも、フィリピの信徒たちからも、キリスト者として、教会として基本的なあり方を示されている。 山下慶親牧師
伝道者パウロは第2回宣教旅行の時、計画変更を余儀なくされた。挫折感に襲われていたであろう。しかし、彼は夢枕に現れたマケドニア人の幻に応えて、トロアスの港から船出した。
マケドニアの最初の宣教地フィリピでは家族全員での改宗者も与えられた。その後、フィリピの人々はパウロの活動を物心両面で支え続けていく。パウロの投獄を聞いた時には、エパフロディトを派遣して世話をさせた。フィリピの信徒への手紙は、フィリピの人々の心遣いとパウロの感謝の思いで満ちている。
相互に信頼関係があり、憶え合っていることは、どれほど大きな励ましになるだろうか。私たちは獄中のパウロからも、フィリピの信徒たちからも、キリスト者として、教会として基本的なあり方を示されている。 山下慶親牧師
「この子を主にゆだねます」(サムエル上1:21-28;マタイ20:20-28)5月10日説教
子どもがいないハンナは祈りが神に聞かれて、幼子が誕生した。彼女は乳離れしたサムエルを「主にゆだねる」ため祭司エリに預けた。私たちもハンナのように、子どもを主にゆだねて成長を願うことが大切ではないだろうか。
ハンナとは対照的に、ヤコブとヨハネの母は実に自分本位である。イエスが王座に着く時、息子2人がイエスの左右に座れるように願っているからである。
私たちは信仰的なハンナには遠く及ばない。しかし自分本位なヤコブとヨハネの母のようにはなりたくない。2人の母の中間に位置している存在である。
福音書や伝説によると、ヤコブは12弟子で最初の殉教者となり、長寿を全うしたヨハネはキリスト教迫害下のエフェソで指導的役割を果たしたという。きっとヤコブとヨハネの母は自分本位な姿から信仰者の姿へと変えられ、2人の息子にしても「主にゆだねられて」歩む者となったのであろう。私たちも、自分の身が主にゆだねられた者として生涯を全うしていけるようでありたい。 山下慶親牧師
ハンナとは対照的に、ヤコブとヨハネの母は実に自分本位である。イエスが王座に着く時、息子2人がイエスの左右に座れるように願っているからである。
私たちは信仰的なハンナには遠く及ばない。しかし自分本位なヤコブとヨハネの母のようにはなりたくない。2人の母の中間に位置している存在である。
福音書や伝説によると、ヤコブは12弟子で最初の殉教者となり、長寿を全うしたヨハネはキリスト教迫害下のエフェソで指導的役割を果たしたという。きっとヤコブとヨハネの母は自分本位な姿から信仰者の姿へと変えられ、2人の息子にしても「主にゆだねられて」歩む者となったのであろう。私たちも、自分の身が主にゆだねられた者として生涯を全うしていけるようでありたい。 山下慶親牧師
「私たちは復活の証人」(Ⅰコリント15:1-11)5月3日説教
ゴールデン・ウィークは家族で一緒に過ごせる数少ない休暇である。連休を大事にしたいと思う。
私たちキリスト者には2つの家族がある。血縁の家族と信仰の家族である。イエスが始められた運動には、血縁の家族を超えさせる特徴があった。弟子たちは自分の家族から離れてイエスに従い、イエス御自身も家族から離れておられた。
15章の記事には、復活したイエスが、パウロに至るまで6回に及んで姿を現されたことが記されている。イエスは直弟子たちだけにではなく、「五百人以上もの人々」や迫害者であったパウロにも現れている。復活の現れが実に広範囲に及んでいることが分かる。パウロは、復活したイエスの証人として、ローマ帝国各地に福音を伝え、教会を設立していった。今日の時代において、私たちはイエス復活の証人である。初代教会のキリスト者たちのように、復活したイエスに励まされ導かれながら、「信仰の家族」として共に「新しい命」(ローマ6:4)に生きていきたい。 山下慶親牧師
私たちキリスト者には2つの家族がある。血縁の家族と信仰の家族である。イエスが始められた運動には、血縁の家族を超えさせる特徴があった。弟子たちは自分の家族から離れてイエスに従い、イエス御自身も家族から離れておられた。
15章の記事には、復活したイエスが、パウロに至るまで6回に及んで姿を現されたことが記されている。イエスは直弟子たちだけにではなく、「五百人以上もの人々」や迫害者であったパウロにも現れている。復活の現れが実に広範囲に及んでいることが分かる。パウロは、復活したイエスの証人として、ローマ帝国各地に福音を伝え、教会を設立していった。今日の時代において、私たちはイエス復活の証人である。初代教会のキリスト者たちのように、復活したイエスに励まされ導かれながら、「信仰の家族」として共に「新しい命」(ローマ6:4)に生きていきたい。 山下慶親牧師
2009年5月1日金曜日
「新しい命に生きる」(ローマ6:3-5; コロサイ3:1-14)5月24日説教
パウロは、私たちキリスト者は「洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものになりました」と言う。洗礼で大事なことは、古い自分に死ぬことである。全身が水中に沈められる浸礼の洗礼は、古い自分に死ぬことを強く実感させる。しかし、私たちの多くが受けた滴礼としての洗礼も、象徴的に意味していることは同じである。
パウロは、キリストの死の姿にあやかるならば、復活の姿にもあやかれると言う。私たちは、古い自分に死ぬだけでなく、キリストの復活の姿にあやかって、新しい命に生きることが大事である。私たちは、古い自分と訣別して、新しい生き方をしているだろうか。
コロサイの信徒への手紙では、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」という表現がなされている。私たちは、洗礼を受けたことによって、キリストと共にすでに復活させられている。キリストの死と復活を無にすることなく、絶えず「上にあるもの」を求める生き方をしていきたいものである。 山下慶親牧師
パウロは、キリストの死の姿にあやかるならば、復活の姿にもあやかれると言う。私たちは、古い自分に死ぬだけでなく、キリストの復活の姿にあやかって、新しい命に生きることが大事である。私たちは、古い自分と訣別して、新しい生き方をしているだろうか。
コロサイの信徒への手紙では、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」という表現がなされている。私たちは、洗礼を受けたことによって、キリストと共にすでに復活させられている。キリストの死と復活を無にすることなく、絶えず「上にあるもの」を求める生き方をしていきたいものである。 山下慶親牧師
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