1月4日新年日曜礼拝説教 旨
「あなたの救いを見た」
(ルカ2:22-40)
難波信義牧師
29-32節は「シメオンの賛歌」である。
老齢のシメオンは、その人生の最後に至
って「、この僕を安らかに去らせてくださ
います」と賛美する。すなわち「満足で、
思い残すことはなく、安らかに去る(死
ぬ)のみだ」と言うのだ。そしてこの確
信は「わたしはこの目であなたの救いを
見たから」だと言う。
シメオンは「イスラエルが慰められる
のを待ち望(25節)」んでいた。彼は、
世界が・社会がどんな状況になろうと、
神に顔を向け・未来に目を向け、「神の時」
を待ち望んでいた。また「、慰める」とい
う言葉は、日本語にしてしまうと限定的
だが、聖書においては重要な言葉であり、
神からの驚くべき「回復の御業」を意味
する。シメオンはこの世界を、ただ「不
幸な世界」として見ていたのではない。
彼は、神に背いた世界を見ていた。そこ
において「神の慰め」を待ち望み、救い
主を待ち望んでいた。
そのメシアの到来を彼は見た。それは
「救いが到来した」と叫ぶには、あまりに
も小さく見える、一人の幼子…。しかし、
この幼子の誕生によって決定的な事が既
に起こったのだと、シメオンは確信し、
高らかに賛美したのである。
シメオンを導いた聖霊は、私たちの内
にも働いて、イエスとの出会いへと導く
2015年2月26日木曜日
12月21日の日曜 教 要 旨
「お言葉どおり」 (ルカ1:26-38)
難波信義牧師
神は、壮大な御計画を実現するために、 人間を用いようとされる。示された場面 も、マリアは、自分でイエスの母となる 事を選んだのではなく、神が彼女を選ん だのである。「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。(28節)」こ の唐突な挨拶に対して、マリアは戸惑い、 驚き、どのように応答すべきか分からな かった。しかし天使とのやり取りの中で、 ついに「神の選び」を受け止め、受け入 れ、「お言葉どおり、この身に成りますよ うに(38節)」と応えるに至った。そし てこの瞬間から、「主が共にいる」という マリアの新しい人生が始まった。 神は人類の歴史に、大きな御業を行う ために、ご自身の計画に従う人を探し、 マリアを見出した。マリアはへりくだり、 御計画への深い知恵に富み、その信仰と 従順によって「お言葉どおり、この身に 成りますように」と、全てを神に委ねた。 しかしこの2000年前の出来事は、決 して過去の出来事としてではなく、今を 生きる私たちにも豊かに示される。この 地にあって、多くの人々と共に、クリス マスの喜びを分かち合うために・「主が 共にいる」と言うメッセージを伝えるた めに、一人一人が選ばれ、招かれ、遣わ されている。その私たちに天使は語りか けている。「おめでとう、恵まれた方。主 があなたと共におられる」と。
「お言葉どおり」 (ルカ1:26-38)
難波信義牧師
神は、壮大な御計画を実現するために、 人間を用いようとされる。示された場面 も、マリアは、自分でイエスの母となる 事を選んだのではなく、神が彼女を選ん だのである。「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。(28節)」こ の唐突な挨拶に対して、マリアは戸惑い、 驚き、どのように応答すべきか分からな かった。しかし天使とのやり取りの中で、 ついに「神の選び」を受け止め、受け入 れ、「お言葉どおり、この身に成りますよ うに(38節)」と応えるに至った。そし てこの瞬間から、「主が共にいる」という マリアの新しい人生が始まった。 神は人類の歴史に、大きな御業を行う ために、ご自身の計画に従う人を探し、 マリアを見出した。マリアはへりくだり、 御計画への深い知恵に富み、その信仰と 従順によって「お言葉どおり、この身に 成りますように」と、全てを神に委ねた。 しかしこの2000年前の出来事は、決 して過去の出来事としてではなく、今を 生きる私たちにも豊かに示される。この 地にあって、多くの人々と共に、クリス マスの喜びを分かち合うために・「主が 共にいる」と言うメッセージを伝えるた めに、一人一人が選ばれ、招かれ、遣わ されている。その私たちに天使は語りか けている。「おめでとう、恵まれた方。主 があなたと共におられる」と。
12月14日の日曜礼拝教 要 旨
「問われる信仰」 (ルカ1:5-25)
難波信義牧師
ルカによる福音書では、イエス誕生の 予告(1:26以下)の前に、洗礼者ヨハネ の誕生が予告されるという出来事を記す。 その内容を見ても、ザカリアは長年祈り 願い続けていた我が子の誕生が、実現す ると告げられて、それを信じることが出 来なかったために、「口が利けなくなる」 という裁きを受けたが、続く場面でのマ リアは、ザカリア同様、信じられずに驚 くが、天使からの「神にできない事は何 一つない」との言葉に、すぐに「わたし は主のはしためです。お言葉どおり、こ の身になりますように。」と答えた。この 対比が、ルカの意図した編集である。 ザカリアも決して不信仰ではなかった。 「非のうちどころがない」とまで記されて いたのだ(6節)。しかし彼には「神にで きない事は何一つない」との確信が無か った。神に祈りながら、神に信用してい ないとすれば、これほど妙な事はない。 しかし「、神にもやっぱり出来ないことが ある」とあきらめた時、神を人間と同じ レベルにまで下げてしまい、信用しきれ なくなってしまう。ザカリアの姿は、紛 れもない私たちの姿なのである。 クリスマスを前に、私たちの信仰が問 われている「。神にできない事は何一つな い」との確信を新たに歩み出したい。
「問われる信仰」 (ルカ1:5-25)
難波信義牧師
ルカによる福音書では、イエス誕生の 予告(1:26以下)の前に、洗礼者ヨハネ の誕生が予告されるという出来事を記す。 その内容を見ても、ザカリアは長年祈り 願い続けていた我が子の誕生が、実現す ると告げられて、それを信じることが出 来なかったために、「口が利けなくなる」 という裁きを受けたが、続く場面でのマ リアは、ザカリア同様、信じられずに驚 くが、天使からの「神にできない事は何 一つない」との言葉に、すぐに「わたし は主のはしためです。お言葉どおり、こ の身になりますように。」と答えた。この 対比が、ルカの意図した編集である。 ザカリアも決して不信仰ではなかった。 「非のうちどころがない」とまで記されて いたのだ(6節)。しかし彼には「神にで きない事は何一つない」との確信が無か った。神に祈りながら、神に信用してい ないとすれば、これほど妙な事はない。 しかし「、神にもやっぱり出来ないことが ある」とあきらめた時、神を人間と同じ レベルにまで下げてしまい、信用しきれ なくなってしまう。ザカリアの姿は、紛 れもない私たちの姿なのである。 クリスマスを前に、私たちの信仰が問 われている「。神にできない事は何一つな い」との確信を新たに歩み出したい。
12月7日日曜礼拝 の 説 教 要 旨
「忍耐と慰め、希望の神」 (ローマ15:4-13)
難波信義牧師
パウロはここで、二つの表現を持って 神を表している。「忍耐と慰めの神(5節)」 と「希望の神(13節)」である。 信仰共同体において「同じ思いを抱く (5節)」「心を合わせ声をそろえて(6節) 礼拝する、「互いに相手を受け入れる(7 節)」という、あたかも当然のことのよう で、実は非常に難しい現実の中で、「忍耐 と慰めの神」を自覚していることは重要 である。何故なら神ご自身が私たちを堪 え忍び、キリストにおいて赦してくださ った。そして今も、私たちに対して「忍 耐と慰めの神」なのである。私たちはこ の神から「忍耐と慰め」を学び、この神 から「忍耐と慰め」をいただくのである。 また「聖書から忍耐と慰めを学んで希 望を持ち続けることができる(4節)」と あるように、「忍耐と慰めの神」こそが 「希望の神」なのである。神は互いに異な る者が心を合わせ、共に生きる事を望ん でおられる。見回せば分裂の世界・その 現実にあって、神は今も赦し、受け入れ、 忍耐を持って、希望を豊かに示す。 私たちの身近な・小さな受け入れ合う ことも、「希望の神」に連なり、遣わされ ることであり、この世界に希望の神を示 す貴い働きなのである。自覚して、クリ スマスに備えた
「忍耐と慰め、希望の神」 (ローマ15:4-13)
難波信義牧師
パウロはここで、二つの表現を持って 神を表している。「忍耐と慰めの神(5節)」 と「希望の神(13節)」である。 信仰共同体において「同じ思いを抱く (5節)」「心を合わせ声をそろえて(6節) 礼拝する、「互いに相手を受け入れる(7 節)」という、あたかも当然のことのよう で、実は非常に難しい現実の中で、「忍耐 と慰めの神」を自覚していることは重要 である。何故なら神ご自身が私たちを堪 え忍び、キリストにおいて赦してくださ った。そして今も、私たちに対して「忍 耐と慰めの神」なのである。私たちはこ の神から「忍耐と慰め」を学び、この神 から「忍耐と慰め」をいただくのである。 また「聖書から忍耐と慰めを学んで希 望を持ち続けることができる(4節)」と あるように、「忍耐と慰めの神」こそが 「希望の神」なのである。神は互いに異な る者が心を合わせ、共に生きる事を望ん でおられる。見回せば分裂の世界・その 現実にあって、神は今も赦し、受け入れ、 忍耐を持って、希望を豊かに示す。 私たちの身近な・小さな受け入れ合う ことも、「希望の神」に連なり、遣わされ ることであり、この世界に希望の神を示 す貴い働きなのである。自覚して、クリ スマスに備えた
11月30 日 の 日曜礼拝教 要 旨
「主が来られるときまで」 (ヤコブ5:1-11)
難波信義牧師
アドヴェント(待降節)に入った。「ア ドヴェント」とは「到来」という意味で ある。それは約2千年前のクリスマスを 指すと同時に、終末(終わりの時)にお けるキリストの再臨をも意味する。使徒 信条の中にも「かしこより来たりて」と あるのが、それである。私たちはこの期 間、クリスマスに備えつつ、キリストの 再臨にも備えるのである。 示された聖書にも「主が来られるとき まで忍耐しなさい(7節)」とある。この 手紙の受信者は様々な迫害や抑圧の中で 試練の中にあった。しかし、その試練に も終わりがある。それが終末・キリスト の再臨の時である。終末は、神に敵対す るものにとっては裁きの時だが、信仰者 にとっては救いの時・希望の時である。 試練は永遠ではなく、終わりの時がある のだと、知る事が大切である。 試練の時は信仰が問われる時である。 そのような時こそ、互いに不平を言わず (9節)、裁く方が戸口に立っている(10 節)ことを忘れてはならない。試練の時 こそ、私たちの信仰を確かにし、神を深 く知る時としたい。そのために、主の到 来・神の時を待つ忍耐を大切にしたい。 アドヴェントの日々、クリスマスに備 えつつ、忍耐を持って歩む私たちであり たい
「主が来られるときまで」 (ヤコブ5:1-11)
難波信義牧師
アドヴェント(待降節)に入った。「ア ドヴェント」とは「到来」という意味で ある。それは約2千年前のクリスマスを 指すと同時に、終末(終わりの時)にお けるキリストの再臨をも意味する。使徒 信条の中にも「かしこより来たりて」と あるのが、それである。私たちはこの期 間、クリスマスに備えつつ、キリストの 再臨にも備えるのである。 示された聖書にも「主が来られるとき まで忍耐しなさい(7節)」とある。この 手紙の受信者は様々な迫害や抑圧の中で 試練の中にあった。しかし、その試練に も終わりがある。それが終末・キリスト の再臨の時である。終末は、神に敵対す るものにとっては裁きの時だが、信仰者 にとっては救いの時・希望の時である。 試練は永遠ではなく、終わりの時がある のだと、知る事が大切である。 試練の時は信仰が問われる時である。 そのような時こそ、互いに不平を言わず (9節)、裁く方が戸口に立っている(10 節)ことを忘れてはならない。試練の時 こそ、私たちの信仰を確かにし、神を深 く知る時としたい。そのために、主の到 来・神の時を待つ忍耐を大切にしたい。 アドヴェントの日々、クリスマスに備 えつつ、忍耐を持って歩む私たちであり たい
11月23日日曜礼拝の 説 教 要 旨
「わたしと一緒に」 (ルカ23:35-43)
難波信義牧師
降誕前節の中で、主の十字架の場面が 示されたが、この期間は信仰の基本に立 ち帰る時でもあるので、そこからこの場 面を見て行きたい。 特に、主の十字架の両側に立つ、二人 の犯罪人の十字架、その姿から示される。 彼らは結果的に、人生の最後に、主と出 会い、主に最も近い所にいることとなっ た。この大きな恵み・神の導きに対する、 人間の反応が、二人の犯罪人に象徴的に 描き出されている。 一人はイエスに言った。「メシアなら、 我々を救ってみろ」と。それは自分の考 える勝手な期待にメシアを押し込め、自 分にとって無力なメシアを拒絶し、のの しる人間の姿である。 それに対して、もう一人は神への畏れ と、悔い改めを持ってイエスに言った。 「あなたの御国においでになるときには、 わたしを思い出してください(42節)」 と。彼はイエスこそ、罪の赦しと、しが らみから解放を成す権限をお持ちの方な のだとの信頼を持って、このように求め た。そしてイエスは「あなたは今日わた しと一緒に楽園にいる」と宣言した。神 の恵みは豊かに届き、その恵みは無駄に はならなかった。 この恵みは私たちにも届いている。無 駄にすることなく、主と共に歩みたい。
「わたしと一緒に」 (ルカ23:35-43)
難波信義牧師
降誕前節の中で、主の十字架の場面が 示されたが、この期間は信仰の基本に立 ち帰る時でもあるので、そこからこの場 面を見て行きたい。 特に、主の十字架の両側に立つ、二人 の犯罪人の十字架、その姿から示される。 彼らは結果的に、人生の最後に、主と出 会い、主に最も近い所にいることとなっ た。この大きな恵み・神の導きに対する、 人間の反応が、二人の犯罪人に象徴的に 描き出されている。 一人はイエスに言った。「メシアなら、 我々を救ってみろ」と。それは自分の考 える勝手な期待にメシアを押し込め、自 分にとって無力なメシアを拒絶し、のの しる人間の姿である。 それに対して、もう一人は神への畏れ と、悔い改めを持ってイエスに言った。 「あなたの御国においでになるときには、 わたしを思い出してください(42節)」 と。彼はイエスこそ、罪の赦しと、しが らみから解放を成す権限をお持ちの方な のだとの信頼を持って、このように求め た。そしてイエスは「あなたは今日わた しと一緒に楽園にいる」と宣言した。神 の恵みは豊かに届き、その恵みは無駄に はならなかった。 この恵みは私たちにも届いている。無 駄にすることなく、主と共に歩みたい。
11月16日礼拝 の 説 教 要 旨
「 奉 仕 」
難波信義牧師 (創世記18:1-8)
バザーにあたり示された聖書は、奉仕 の意味について、私たちに示している。 「信仰の父」としてユダヤ教、キリス ト教、イスラームにおいて尊敬されてい るアブラハムだが、彼は信仰だけではな く、人に対しても親切であった。見ず知 らずの旅人を招き、食べきれないほどの 食事を準備し、丁重にもてなした。アブ ラハム自身も駆けずり回っている(2,6, 7節)。まさに愛とは、人のために身を粉 にして駆けずり回ることだと示される。 彼は何故そこまで親切に出来たのか。 ここに「信仰」が関わっている。すなわ ち、どんな人との出会いでも、その中に 神の御心・御業があるのだという信仰で ある「。私を愛してくださる神のためなら ば、それをしないわけにはいかない」と いう感謝から溢れ出る行為、それが「奉 仕」である。 アブラハムも、故郷を離れて「寄る辺 なき旅人」であった。その中で神の導 き・守りを知った。その感謝から、他の 旅人のもてなしにつながった。 さらに、このようにもてなした旅人が、 主ご自身であったという。旅人をもてな す・隣人に奉仕するという事は、私の家 に神を・私の人生にイエスを迎えるチャ ンスなのである。覚えて歩みたい。
「 奉 仕 」
難波信義牧師 (創世記18:1-8)
バザーにあたり示された聖書は、奉仕 の意味について、私たちに示している。 「信仰の父」としてユダヤ教、キリス ト教、イスラームにおいて尊敬されてい るアブラハムだが、彼は信仰だけではな く、人に対しても親切であった。見ず知 らずの旅人を招き、食べきれないほどの 食事を準備し、丁重にもてなした。アブ ラハム自身も駆けずり回っている(2,6, 7節)。まさに愛とは、人のために身を粉 にして駆けずり回ることだと示される。 彼は何故そこまで親切に出来たのか。 ここに「信仰」が関わっている。すなわ ち、どんな人との出会いでも、その中に 神の御心・御業があるのだという信仰で ある「。私を愛してくださる神のためなら ば、それをしないわけにはいかない」と いう感謝から溢れ出る行為、それが「奉 仕」である。 アブラハムも、故郷を離れて「寄る辺 なき旅人」であった。その中で神の導 き・守りを知った。その感謝から、他の 旅人のもてなしにつながった。 さらに、このようにもてなした旅人が、 主ご自身であったという。旅人をもてな す・隣人に奉仕するという事は、私の家 に神を・私の人生にイエスを迎えるチャ ンスなのである。覚えて歩みたい。
登録:
投稿 (Atom)